孫休
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/08 07:27 UTC 版)
逸話
- 雉狩を好み、早朝から出かけ、夕刻にかえった。群臣達は「雉はつまらぬものです。どうしてそれに耽るに足りましょうや」と諫言した。孫休は「つまらぬものと言えども節操の堅さは人に勝っている。朕が好むのはそういう事だ」と答えた[14]。
- 孫休の病気が重くなったとき、病の正体を見破る術のできる者を探した。一人見つかったので、試してみようと、ニワトリを殺して庭に埋めて、それに屋根をかけてベッドを置き、女ものの靴や衣服をその上に置いておいた。「もしこの墓の中にいる女の亡者の姿形を当てる事ができたなら褒美を与え、その能力を信用しよう」と言った。しかしその男は一日中なにも答える事ができなかった。帝が何度も尋ねるので、「実は、亡霊の姿を見る事ができません。ただ、白い頭の鶏が墓の上に立っているだけなので、答える事ができませんでした。鬼神のようなものが姿を変えているのではないかと疑って、その真の姿を見定めようとしているのですが、姿を元に戻す様子もありません。何故なのか私にはわかりませんが、そうとしか解りませんでした」と、答えたという。[15]。
宗室
后妃
子女
4人の息子を命名するにあたり、名は競合するべきではなく、他の者が避諱し易いようにとの理由で新しい漢字を創造したという[17][18]。上から、
- 孫𩅦[19](そん わん[20])、字は𦯶[21](きつ[22]) - 太子、のちに豫章王
- 孫𩃙[23](そん こう[24])、字は𧟨[25](けん[26]) - 汝南王
- 孫壾(そん もう[27])、字は昷(きょ[28])- 梁王
- 孫𠅨[29](そん ほう[30])、字は㷏[31](よう[32]) - 陳王
となっている
- 公主 - 朱宣(朱拠の子の朱熊の子)に降嫁した
- ^ 『三国志』呉志 濮陽興伝
- ^ 『三国志』呉志 王蕃伝
- ^ 『江表伝』
- ^ 『三国志』呉志 孫権王夫人伝
- ^ 『三国志』呉志 孫綝伝
- ^ 『三国志』呉志 丁奉伝
- ^ a b 『三国志』呉志 孫綝伝
- ^ 『三国志』呉志 諸葛恪伝 が引く『江表伝』
- ^ 『三国志』呉志 濮陽興伝
- ^ 『呉録』
- ^ 『三国志』呉志 陸遜伝 が引く『会稽典録』によると、駱統の子。
- ^ 「雨」のしたに「單」、読みは「湾」に準じる
- ^ 『江表伝』
- ^ 『世説新語』
- ^ 『搜神記』
- ^ 立后に際し、姪にあたる朱氏を立てている。裴松之の批判を受けたが、両者の関係は良好であったと伝えられる。
- ^ 裴松之によれば、この四人の子の名前は朱育が取っている。
- ^ 『呉録』
- ^ 「雨」のしたに「單」
- ^ 音は「湾」と同じ
- ^ 「艹」のしたに「囧」
- ^ 音は「迄」と同じ
- ^ 「雷」のしたに「大」
- ^ 音は「觥」と同じ
- ^ 「襾」のしたに「升」
- ^ 音は「礥」と同じ
- ^ 音は「莽」と同じ
- ^ 音は「挙」と同じ
- ^ うえが「亠」ひだりからしたが「先」みぎが「夊」
- ^ 音は「褒」と同じ
- ^ 「禾午」のしたに「火」
- ^ 音は「雍」と同じ
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