大熊氏廣 概要

大熊氏廣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/19 00:03 UTC 版)

概要

鳩ヶ谷宿近くの武蔵国足立郡中居村八幡木(現埼玉県川口市八幡木)で農家の次男として生まれた。兄・徳太郎は後に篤農家として知られた人物である。

幼少時から絵が得意で、後に洋画を学んだ。1876年(明治9年)に開校した工部美術学校の彫刻科に入学し、イタリア人教師ラグーザのもとで学んだ。1882年に首席で卒業し、翌年、有栖川宮邸(J.コンドル設計)の建築彫刻を担当、1884年に工部省に入り、皇居(明治宮殿)造営などに関わった。

1885年、大村益次郎像の制作を依頼された。1890年、工部省の廃止により内務省に移るがまもなく辞職し、岩崎家の援助を受けてヨーロッパに留学。パリ美術学校でアレクサンドル・ファルギエールに学んだ後、ローマ美術学校に入学し、ジュリオ・モンテヴェルデ英語版に学んだ。翌年末に帰国。大村像は1893年に完成し、一躍大熊の名を上げることになった。その後も有栖川宮像、小松宮像などの大作を手がけ、文部省展覧会審査員などを務めた。

1934年、肺炎で死去。墓所は雑司ヶ谷霊園にある。

主な作品

参考文献

  • 平野清『鳩ケ谷の歴史』(鳩ケ谷の歴史刊行会、1970年)

関連項目

外部リンク




「大熊氏廣」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「大熊氏廣」の関連用語








8
10% |||||

9
10% |||||


大熊氏廣のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



大熊氏廣のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの大熊氏廣 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS