大内義尊 大内義尊の概要

大内義尊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/04 04:10 UTC 版)

 
大内 義尊
時代 戦国時代
生誕 天文14年(1545年
死没 天文20年9月2日1551年10月1日
改名 亀童丸(幼名)→義尊
戒名 幻性院真海珠珍[1]、珠珍鳳毛[2]
官位 従五位下周防介
氏族 大内氏
父母 父:大内義隆、母:小槻伊治の娘・おさいの方
兄弟 珠光義尊義教大石義胤
テンプレートを表示

生涯

大内義隆の嫡男で、義隆が39歳の時に生まれた。母は義隆の2番目の正室であるおさいであるが[3]、実は義隆の実子かどうかを疑われていたという[4]

天文16年(1547年2月17日には3歳にして従五位下 周防介に叙任される[5][1][6]。新介と称した[1]陶晴賢が義隆に対する謀反の計画を企図した際、最初は義隆の隠居と義尊の新当主擁立が決められていたが、この義尊の実子か否かの問題のために晴賢は計画を変更して義隆・義尊殺害に変更したとされている[4]

天文20年(1551年8月29日、晴賢が謀反を起こすと、父の義隆や公家衆とともに山口より脱出し、長門大寧寺へ逃れた。この時、義尊は幼少のため従者(同朋衆の龍阿)に背負われていたという[5]。しかし幼児ながらも謀反に動揺せず立派な態度を見せたと伝わる[註 1]

天文20年(1551年9月1日、義隆は大寧寺において自害。義尊も小幡義実に連れられて逃亡を図るが同日に捕らえられた[5]。この時、陶隆房は助命すると述べて捕虜にしたのだが[7]、翌日には約束を反故にされて義尊は殺害された[5][7]大寧寺の変)。享年7歳[8][4][9][10][11][6][註 2][註 3]。殺害された場所は、俵山温泉の現在麻羅観音がある奥とされる[12]。また翌年大内義尊の弟の大内歓寿丸も捕らえられ、同じ場所で殺されている[12]

関連作品

テレビドラマ

脚注


注釈

  1. ^ 『大内義隆記』では「御曹子何の心もましまさず」とある。
  2. ^ 『大内系図』には12歳とある。
  3. ^ 『大寧寺過去帳』には「忌日一日」とある。

出典

  1. ^ a b c 『大内系図』
  2. ^ 『大寧寺過去帳』
  3. ^ 『相良家文書』
  4. ^ a b c 『大内義隆記』
  5. ^ a b c d 福尾猛市郎 1989, p. 68.
  6. ^ a b 歴名土代
  7. ^ a b 福尾猛市郎 1989, p. 174.
  8. ^ 『言延覚書』
  9. ^ 『大内義隆記』異本
  10. ^ 『中国治乱記』
  11. ^ 『房顕記』
  12. ^ a b 長門市、俵山温泉観光協会、俵山下安田区住民、俵山旅館組合、俵山温泉旅館組合、俵山温泉合名会社による昭和59年に合同建立された麻羅観音の説明板の内容より(現地)


「大内義尊」の続きの解説一覧




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「大内義尊」の関連用語

大内義尊のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



大内義尊のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの大内義尊 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS