千社札
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/20 02:03 UTC 版)
概要
千社札は紙で作られることが多いが、木札や金属製の物も存在する。江戸時代中期以降に流行しており、次第に手書きから木版製に移行した[要出典]。近年ではシール状の物が多く、ゲームセンター等に設置されている専用機から名前等を入力して作成することも可能である。実際に貼る時には、相応の許可を得るか、貼っても良いことを確認する必要がある。
神社仏閣に納札する為の単色刷りで、屋号や土地名、模様と名前をスミ刷にした貼札(はりふだ)と呼ばれる題名札と、複数色を使い、錦絵のようなデザインにも凝った色札(いろふだ)と呼ばれる交換納札がある。歌川芳兼や梅素亭玄魚らが得意としていた。
題名札が貼られている間は、参籠(さんろう:宿泊参拝)と同じ功徳があるとの民間信仰から、日帰り参拝者が参籠の代わりに自分の札を貼ったことから始まり、神社仏閣の許可と御朱印を得た上で千社札を貼るのが本来の慣わしである。
通常は目立つ所に貼るが、「隠し貼り」といって、風雨に晒されず目立たない所に貼ることもある。手軽に作れることから、本来の用途と異なる用途で使用されることもある。
歴史
安永年間(1772年~)の江戸に奇人として知られた天愚孔平[1][2]という人物がおり[3]、文化9年(1812年)に曲亭馬琴が本人から聞き書きした話によれば、孔平は若かりし頃から暇になると江戸近郊の寺社に参詣し、記念の落書きとして柱や壁に自分の名前を書き残していた。やがて筆でサインするのが面倒になり「鳩谷天愚孔平」と大書した、今日の週刊誌サイズの木版ポスターを大量に刷り、サインの代わりに貼るようになった。この奇行が反響を呼び、千社札のブームが発生したという[3]。また、千社札の剥がされにくい高さや貼り方などを最初に考案したのも孔平だという[3]。
ブームによって各所で千社札のグループが作られ、争うように千社札が貼られるようになったため、寛政11年には町奉行から禁令が出されたが下火になることはなかった[3]。天保年間になって、大錦を16分割した短冊形の規格が作られ、錦絵と区別するための枠が入れられるようになった[3]。
寸法
千社札(一丁札)の紙寸法は、幅一寸六分(48ミリ)、高さ四寸八分(144ミリ)。一丁札の中に、子持ち枠と呼ばれる罫囲みがあり、この中に文字などを入れる。子持ち囲みは外枠が太枠、内が細枠。1887年に、それまでまちまちだった子持ち囲みの寸法が外寸法で幅48ミリ高さ144ミリと決められた[要出典]。比率はいずれも1:3となっている。札の上部に余白を開ける。
ほかに、連札(れんふだ)と呼ばれる、横幅が二枚分の二丁札、そして三丁札、八丁札など大きさもいろいろある。元となる奉書全判は十六丁で、紙寸法は395×530ミリ。この紙全体を切らずに一枚のもので作った札を16丁札といい、通常はこの紙を短辺を半分にして、これを左右8分割して、全判を16分割したものを一丁札(いっちょうふだ)という。
千社札と同じ種類の言葉
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