千利休 足跡

千利休

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/17 23:04 UTC 版)

足跡

千利休屋敷跡
堺市堺区宿院町西1丁)
利休居士四百年記念碑
九州大学馬出地区内
  • 大阪府堺市堺区宿院町西1丁の中浜筋沿いに利休の屋敷跡と伝えられる場所があり、市の史跡として保護されている。千家茶道の発祥と発展にともない、くるみ餅、芥子(けし)餅、肉桂(にっき)餅、大寺餅といった堺銘菓を扱う和菓子店が周囲に多数存在し、中には豊臣秀吉が名付けたものもある。
  • 京都市上京区晴明神社内に利休屋敷跡の碑が建つほか、堺の百舌鳥野(現在の大仙陵古墳周辺か)に「もずの屋敷」、京都五条堀川辺りに「醒ヶ井屋敷」、同じく東山大仏前に「大仏屋敷」、大徳寺門前に「大徳寺屋敷」、大阪府島本町山崎に「山崎屋敷」を構えていたと伝えられ、京都府乙訓郡大山崎には茶室「待庵」(国宝)が現存する。
  • 顕彰・展示施設としては堺市営の「千利休茶の湯館」がある(「さかい利晶の杜」として与謝野晶子記念館と併設)[41]
  • 現在でも「利休饅頭(同種の菓子に利久饅頭の別名もあり)」というお茶受けのお菓子が各地にある。
  • 天正15年(1587年)、豊臣秀吉の九州遠征に同行し、筥崎宮に20日あまり滞在したとされる。このとき、秀吉は黒田休夢黒田孝高(官兵衛)の叔父)らと浜(現在の九州大学馬出キャンパス内)で茶会を催した。利休は秀吉の命により、に鎖を下ろし、雲龍の小釜をかけ、白砂の上の松葉をかき集めて湯を沸かしたとされる。

作品

伝 千利休 竹花入「音曲」 

利休はさまざまな新しい試みを茶道に持ち込んだ。樂家初代・長次郎をはじめとする職人を指導して好みの道具を作らせるとともに、自らも茶室の設計、花入・茶杓の製作など道具の製作にも熱心であった。紹鴎の時代にあってもまだ煩雑であった茶会の形式をさらに簡略化するとともに、侘び道具を製作・プロデュースして、多くの支持者・後継者に恵まれたことが、利休を侘び茶の完成者と言わしめる由縁である。

  • 茶室待庵京都府大山崎町所在。利休作といわれる。国宝
  • 黄金の茶室 : 豊臣秀吉の命により製作。
  • 書状「武蔵あぶみの書(織部あて)」「末吉勘兵衛宛書状」「松井佐渡守宛書状」など
  • 書状「寄進状」
  • 書「孤舟載月」
  • 竹花入「園城寺」「尺八」「夜長」
  • 茶杓「なみだ」「面影」

出自・系譜

利休の祖父は、『千家系譜』[42]によれば、

里見太郎義俊二男、田中五郎末孫、生国城州、東山慈照院義政公同朋相勤

と説明されており、新田里見氏の一族田中氏の出身とされる。また『千利休由緒書』[43]には、

利休先祖之儀ハ、代々足利公方家ニ而御同朋ニ而御座候。先祖より田中氏に而御座候。就中、利休祖父ハ田中千阿弥〔初メ専阿弥ト号ス、太祖ハ里見太郎義俊二男、田中義清と申末孫也と云、〕と申候而、東山公方慈照院義政公の御同朋ニ而御座候、(中略)千阿弥発心致し泉州堺江閑居仕候、其子与兵衛ハ田中之名字を改メ父之名ノ千を取り苗字ニ致し、与兵衛と申候而堺之今市町ニ而商家ニ罷成候、其子千与四郎と申候而今市町ニ而商売仕候所茶道ヲ好キ候。

と書かれており、利休の祖父の名は初めは専阿弥、のちに千阿弥といい、足利義政同朋衆であったため、その子、田中与兵衛(利休の父)がその阿弥号の千の字をとって千姓を称したとされる。

ただし、「阿弥」号は当時の時宗門徒などにはきわめてありふれたものであり、必ずしも同朋衆に結びつくものではない。この説の初出である「千利休由緒書」は、利休の曾孫である江岑宗左によるものであり、利休の同時代史料には見当たらないところから内容を疑問視する向きがある。たとえば芳賀幸四郎は、「千利休由緒書」の伝承は『応仁記』巻第二「室町亭行幸之事」に名の見える「同朋専阿弥」を参考にしたのではないかと指摘する[44]。また村井康彦は、「利休の祖先が義政の同朋衆であったとするなら(中略)千阿弥は利休の祖父というより曾祖父」でなければ時代が合わないと疑義を呈している[45]。中村修也は、「利休の祖父が足利義政の同朋衆であったという確たる史料はなく、むしろ創作された家伝と見るほうが無難である。ただし、この記事は田中姓から千姓に代わった経緯を説明する役割を担っており、その意味では、千家がもとは田中姓であったことは疑いあるまい」[46]としている。

さらに、山上宗二の『山上宗二記』(天正16年(1588年))は、利休のことを田中宗易、利休の長男を田中紹安(のちの道安)と記しており[47]、利休の晩年に至っても姓としては田中の方が通っていたと考えられることから、利休の父の代に田中姓を千姓に代えたのではないとする向きもある。たとえば神津朝夫は、「利休の父が田中姓を千姓に改めたというのも正しくない。『山上宗二記』には「田中宗易」と明記されており、利休の本姓は依然として田中だったことがわかるからだ」と指摘し、「千」は利休以前から続く田中家の屋号であるとしている。神津はこれに続けて「韓国では千家は朝鮮系の家ではないかとする説もあるが、田中が姓だったのではそれも成り立たない。もしも日本「帰化」姓が田中だったのなら、秀吉の朝鮮侵略中に少庵が千家に戻したことになり、あまりに不自然だろう」とも指摘している[48]


  1. ^ 近年、日本茶道史研究家の中村修也文教大学教授)は『時慶記』の記述や豊臣秀吉発大政所宛書状の内容などを論拠として、利休はこの時死なずに失踪し、消息不明となったという説を唱えている[18]
  2. ^ 桑田忠親は、「ある長編の歴史小説で試みられた作家のフィクションであって、史実ではない」と否定している[29]。なお、その歴史小説とは、野上彌生子『秀吉と利休』を指す。
  3. ^ 毘沙門町および葭屋町通元誓願寺下ル町の晴明神社の近くにあったという。また『聚楽古城図』(国立国会図書館・広島県立図書館など蔵)によれば、聚楽第北御門横の元誓願寺通下る大宮通東付近にあったと推定される。






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