千利休 千利休の概要

千利休

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/17 23:04 UTC 版)

絹本著色千利休像
長谷川等伯画、春屋宗園賛、不審菴蔵、重要文化財

わび茶(草庵の茶)の完成者として知られ、茶聖とも称せられる。また、今井宗久津田宗及とともに茶湯の天下三宗匠と称せられ、「利休七哲」に代表される数多くの弟子を抱えた。また、末吉孫左衛門の親族である平野勘平衛利方と親しく交流があった。子孫は茶道三千家として続いている。千利休は天下人・豊臣秀吉の側近という一面もあり、豊臣秀吉が旧主・織田信長から継承した「御茶湯御政道」の中で、多くの大名にも影響力をもった。しかし秀吉との関係に不和が生じ始め、最期は切腹を命じられた。死に至った真相については諸説あり、定まっていない。

名・号

幼名は田中与四郎(たなか よしろう、與四郎とも)、のち法名千宗易(せんの そうえき、せん そうえき)、抛筌斎(ほうせんさい)とした。

広く知られた利休の名は、天正13年(1585年)の禁中茶会にあたって町人の身分では参内できないため、正親町天皇から与えられた居士号である。考案者は、大林宗套笑嶺宗訢古渓宗陳など諸説がある。いずれも大徳寺の住持となった名僧で、宗套と宗訢は堺の南宗寺の住持でもあった。宗陳の兄弟弟子であった春屋宗園によれば、大林宗套が考案者だったという(『一黙稿』)。しかし、宗套は禁中茶会の17年前に示寂しており、彼が関わったとすれば利休が宗套から与えられたのは「利休宗易」の名であり、若年時はの「宗易」を使用し、少なくとも与四郎と称していた天文4年(1535年)4月28日から天文13年(1544年)2月27日以前に宗易と号したと考えられる[1]。のちに宮中参内に際して(あざな)の「利休」を居士号としたと考えられる。こう考えれば宮中参内の2年前、天正11年(1583年)に描かれた肖像画(正木美術館蔵)の古渓宗陳による讃に「利休宗易禅人」とあることも理解できる。

号の由来は「名利、既に休す」の意味とする場合が多いが、現在では「利心、休せよ(才能におぼれずに「老古錐(使い古して先の丸くなった錐)」の境地を目指せ)」と考えられている。「利休」の名は晩年での名乗りであり、茶人としての人生のほとんどは宗易を名乗っている。

生涯

和泉国商家(屋号「魚屋(ととや)」)の生まれ。父は田中与兵衛(田中與兵衞)、母の法名は月岑(げっしん)妙珎、妹は宗円(茶道久田流へ続く)。

家業は、納屋衆[要出典](倉庫業)。塩魚を独占的に扱う商人()ないし、そういった商人たちに倉庫を貸す「問」だったとされる(利休が切腹時に書いた遺産分け状の冒頭に「問の事、泉国ある程の分。同佐野問、塩魚座賃銀百両也」とある)[2]

19歳で父を失い、それと前後して祖父も失う[3]。祖父の七回忌に無財のため法要ができず、涙を流しながら墓掃除をしたとの日記が残る(不審庵蔵『緑苔墨跡』)。当時、応仁の乱の影響で、特権的商人たちは独占に対する保護を失い、苦境に立たされていた[4]

17歳より茶の湯を習う。利休の最初の師は北向道陳(『堺数寄者の物語』)[5]。『南方録』によると、その後、武野紹鴎に師事し、師とともに茶の湯の改革に取り組んだとされているが、この記述は『堺数寄者の物語』や『南方録』のタネ本とされる『堺鏡』にはない[6]。他方、『山上宗二記』の記述から、利休の師は紹鷗ではなく辻玄哉だった可能性が指摘されている[7]

天文13年(1544年)2月27日、松屋久政らを招いて茶会を開く(『松屋会記』)。この茶会が信頼性のある記録の中で最初の利休の茶会である[8]。この茶会で利休は、珠光茶碗(技術的不備で青くなり損ねた青磁で、村田珠光が使っていた名物(『清玩名物記』))を用いており、以降、永禄2年(1559年)までの『松屋会記』および『天王寺屋会記』に記録されている4つの茶会でも、珠光茶碗を使っている[9]

商人としては、堺の実質的支配者であった三好氏[10]の御用商人となり、財を成したと推測されている[11]永禄4年(1561年)までに、珠光茶碗を三好実休に千貫で売っている(『山上宗二記』)[12]

堺の南宗寺に参禅し、その本山である京都郊外紫野の大徳寺とも親しく交わった。

永禄12年(1569年)以降の堺が織田信長直轄地となっていく過程で、堺の豪商茶人であった今井宗久津田宗及とともに、信長に茶堂として召し抱えられる。天正2年(1574年)3月に信長が京都相国寺で開いた茶会に、ほかの堺の有力商人9人とともに招かれたとの記録が残る(津田宗及『信長茶会記』)。このときまでに、堺の自治組織である会合衆の一員となっていたと考えられる[13]天正3年(1575年)、越前の一向一揆掃討戦を行う信長のために鉄砲玉を調達して送り、謝状を受け取っている(不審庵蔵『利休宛信長黒印状』)[14]

天正10年(1582年)6月の本能寺の変および山崎の戦いのあとは豊臣秀吉に仕えた。同年8月に秀吉を訪ねた利休は、茶室を作るように命じられ、約半年をかけて、翌年3月に現存する利休作の唯一の茶室である待庵を完成させた(『末吉勘兵衛宛利休書状』天正11年3月8日付)。このとき、薮内紹智に宛てた書状(天正10年11月14日付)に「迷惑なること」を秀吉から頼まれた、と記している[15]

天正11年(1583年)5月には、秀吉が近江坂本城で開いた茶会で初めて茶堂を勤めている[16]

天正12年(1584年)には、秀吉が築城した大坂城内の庭園空間である山里に、2畳の茶室を作っている[17]。その周りには垣と跳ね木戸が作られ(『宗湛日記』)、茶庭としての露地が生まれることとなった。これ以後、楽茶碗や竹花入などの茶道具を創作するようになる。

天正13年(1585年)10月の秀吉の正親町天皇への禁中献茶に奉仕し、このとき宮中参内するため居士号「利休」を勅賜される。同年、黄金の茶室を設計。天正15年(1587年)には、北野大茶湯を主管。同年完成した聚楽第内に屋敷を構え、築庭にも関わり、も3,000石を賜わるなど、茶人として名声と権威を誇った。秀吉の政事にも大きく関わっており、大友宗麟は大坂城を訪れた際に豊臣秀長から「公儀のことは私に、内々のことは宗易(利休)に」と忠告された。

天正19年(1591年)、利休は突如秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられる。大徳寺の山門は応仁の乱によって大破し、長らく放置されていた。利休は晩年にこの山門修築の事業を引き継ぎ、門の上に閣を重ねて楼門を造り、金毛閣を寄進した。その落成にあたって山門供養のために利休が春屋和尚に依頼し、その求めに応じて書かれたのが「千門萬戶一時開」の一偈である。この文は、利休の影響力が自分の影響力を超えていると考え、秀吉を怒らせた。前田利家や、利休七哲のうち古田織部細川忠興大名である弟子たちが奔走したが助命は適わず、京都に呼び戻された利休は聚楽屋敷内で切腹を命じられる。享年70[注釈 1] 。切腹に際しては、弟子の大名たちが利休奪還を図るおそれがあることから、秀吉の命令を受けた上杉景勝の軍勢が屋敷を取り囲んだと伝えられる。死後、利休の首は一条戻橋梟首された。首は賜死の一因ともされる大徳寺三門上の木像に踏ませる形でさらされたという。墓所は大徳寺聚光院

利休が死の前日に作ったとされる遺偈が遺されている。

人生七十 力囲希咄(じんせいしちじゅう りきいきとつ)
吾這寶剣 祖佛共殺(わがこのほうけん そぶつともにころす)
提る 我得具足の 一太刀(ひっさぐる わがえぐそく ひとつたち)
今此時ぞ 天に抛(いまこのときぞ てんになげうつ)
— 久須見疎安『茶話指月集』(元禄14年(1701年))

利休忌は現在、3月27日および3月28日に大徳寺で行われている。

死の原因

利休が秀吉の怒りを買った原因を「大徳寺三門(金毛閣)改修にあたって増上慢があったため、自身の雪駄履きの木像を楼門の2階に設置し、その下を秀吉に通らせた」[19][20]とする説が知られているが、その他にもさまざまな説があり、詳しくは分かっていない。

  • 安価の茶器類を高額で売り、私腹を肥やした「売僧の行い」の疑いを持たれたという説[21]
  • 二条天皇陵の石を勝手に持ち出し、手水鉢庭石などに使ったことが秀吉の怒りを買ったという説[22]
  • 秀吉と茶道に対する考え方で対立したという説[23]
  • 春屋に依頼された利休の作とされる大徳寺の山門の供養の偈が秀吉を怒らせたという説。
  • 利休の心の器の大きさに、秀吉は茶会のあるたびに恥をかかされ、恨みを買っていた説。
  • 秀吉は「わび茶」を陰気なものとして嫌っており、黄金の茶室にて華やかで伸びやかな茶を点てさせた事に不満を持っていた利休が、信楽焼茶碗を作成し、これを知った秀吉からその茶碗を処分するよう命じられるも、拒否したという説[24]
  • 秀吉が利休の娘を妾にと望んだが、「娘のおかげで出世していると思われたくない」と拒否し、彼にそのことを恨まれたという説[25][26]
  • 豊臣秀長死後の豊臣政権内の不安定さからくる政治闘争に巻き込まれたという説[27]
  • 秀吉の朝鮮出兵を批判したという説[28][注釈 2]
  • 権力者である秀吉と芸術家である利休の自負心の対決の結果という説 [30][31][32]
  • 交易を独占しようとした秀吉に対し、堺の権益を守ろうとしたために疎まれたという説[33]
  • 金毛閣山門供養之偈
    利休が修行していた南宗寺徳川家康とつながりがあり、家康の間者として茶湯の中にを入れ、茶室で秀吉を暗殺しようとしたという説[34][35]

死後

千利休の自害後、聚楽城内にあった利休聚楽屋敷[注釈 3]は、秀吉の手によって取り壊された。利休七哲の1人である細川忠興創建の大徳寺高桐院には、この利休屋敷の一部と伝えられる書院が残る。十数年後、この屋敷跡地は、忠興の長男・長岡休無の茶室・能舞屋敷として活用された。

茶の湯の後継者としては先妻・宝心妙樹の子である嫡男・千道安と、後妻・宗恩の連れ子で娘婿でもある千少庵が有名であるが、このほかに娘婿の万代屋宗安、千紹二の名前が挙げられる。ただし、道安と少庵は利休死罪とともに蟄居し、千家は一時取り潰しの状態であった。豊臣家の茶頭としての後継は古田織部であったが、そのほかにも織田有楽斎、細川忠興ら多くの大名茶人がわび茶の道統を継いだ。

利休の死後数年を経て(文禄4年(1595年)ごろ)、徳川家康や前田利家の取りなしにより、道安と少庵は赦免された。道安が堺の本家堺千家の家督を継いだが、早くに断絶した。このため、少庵の継いだ京千家の系統(三千家)のみが現在に伝わる。また薮内流家元の藪内家と千家にも、この時期に姻戚関係が生じる。

三千家は千少庵の系譜であり、大徳寺の喝食であったその息子・千宗旦が還俗して、現在の表千家・裏千家の地所である京都の本法寺前に屋敷を構えた。このとき宗旦は、秀吉から利休遺品の数寄道具長櫃3棹を賜ったという(指月集)。その次男宗守・三男宗左・四男宗室がそれぞれ独立して流派が分かれ、武者小路千家官休庵・表千家不審庵・裏千家今日庵となっている。件の木像は今日庵に現存する。

利休の茶の湯

  • 「わび茶」の完成者としての利休像は、『南方録』をはじめとする後世の資料によって大きく演出されてきたものである。偽書である『南方録』では、新古今集六百番歌合に出詠)の藤原家隆の歌、「花をのみ 待つらん人に 山里の 雪間の草の 春をみせばや 」を利休の茶の心髄としており、表面的な華やかさを否定した質実な美として描かれている。しかしこれらの資料では精神論が強調されすぎており、かえって利休の茶の湯を不明確なものとする結果を招いてきた。
  • 同時代の茶の湯を知るには、利休の高弟である山上宗二による『山上宗二記』が第1級の資料とされている。この書によると、利休は60歳までは先人の茶を踏襲し、61歳から(つまり本能寺の変の年から)ようやく独自の茶の湯を始めたという。つまり、死までの10年間がわび茶の完成期だったということになる。
  • 茶道具を前もって飾っておかず、すべて茶室に運び入れるところから点前を始める「運び点前」を広めたことが、利休の茶の湯への最大の貢献とされる(『僊林』)[36]。運び点前では、茶を点てることが「主」で、茶道具はそのための手段として「従」とされる。なお、利休の最初の師とされる北向道陳が、茶道具のうち水指だけは最初に畳の上に置いておく「置水指の平点前」をしていたとの記録がある[37]
  • 『南方録』には、唐物の名物道具を棚に飾っておく「台子点前」が茶の湯の「根本」であると利休が語ったとされているが、利休の台子点前について記述している『茶之湯次第書』には、利休が台子点前を「数寄に入らず」と嫌っていたことが記されている[38]
  • 利休の茶の湯の重要な点は、名物を尊ぶ既成の価値観を否定したところにあり、一面では禁欲主義ともいえる。その代わりとして創作されたのが楽茶碗や万代屋釜に代表される利休道具であり、造形的には装飾性の否定を特徴としている。名物を含めた唐物などに比べ、このような利休道具は決して高価なものではなかった点は重要である。
  • 利休は茶室の普請においても画期的な変革を行っている。草庵茶室の創出である。それまでは4畳半を最小としていた茶室に、庶民の間でしか行われていなかった3畳、2畳の茶室を採りいれ、躙り口(潜り)や下地窓、土壁、五(四)尺床などを工夫した。その中でも特筆されるべきは「窓」の採用である。師の紹鷗まで茶室の採光は縁側に設けられた2枚引きあるいは4枚引きの障子による「一方光線」により行われていたが、利休は茶室をいったん土壁で囲い、そこに必要に応じて窓を開けるという手法を取った(「囲い」の誕生)。このことにより、茶室内の光を自在に操り必要な場所を必要なだけ照らし、逆に暗くしたい場所は暗いままにするということが可能になった。のちには天窓や風呂先窓なども工夫され、一層自在な採光が可能となった。設計の自由度は飛躍的に増し、小間の空間は無限ともいえるバリエーションを獲得することとなった。利休の茶室に見られる近代的とも言える合理性と自由さは、単に数奇屋建築にとどまらず、現代に至るまで日本の建築に大きな影響を及ぼしてきた。
  • 露地」も利休の業績として忘れてはならない。それまでは単なる通路に過ぎなかった空間を、積極的な茶の空間、もてなしの空間とした。このことにより、茶の湯は初めて、客として訪れともに茶を喫して退出するまでのすべてを「一期一会」の充実した時間とする「総合芸術」として完成されたと言える。
  • 「利休箸」「利休鼠」「利休焼」「利休棚」など、多くのものに利休の名が残っており、茶道のみならず日本の伝統に大きな足跡を刻んでいるといえる。

人物・逸話

絹本著色千利休像(古渓宗陳賛、正木美術館蔵、重要文化財
  • 現存している利休の甲冑、「伝千利休所用 紺糸威縫延二枚胴具足(不審菴蔵)から推定[要出典]すると身長が180センチほどだったとされる。利休没後100年ごろに成立したと推定される『南方録』滅後にも、利休が大男であったという記述がある[25]
  • ある朝、秀吉が利休に茶会に招かれると庭の朝顔がすべて切り取られていた。不審に思いながら秀吉が茶室に入ると、床の間に1輪だけ朝顔が生けてあり、1輪ゆえに際立てられた朝顔の美しさに秀吉は深く感動した(『茶話指月集』)。
  • 弟子の古田織部の茶席で、籠の花入の下に薄板を敷いていないのを見て感じ入り、「このことに関しては私が弟子になりましょう」とまで述べた(『茶話指月集』)。
  • ある冬の日、大坂から京へ向かっていた利休は、親しい茶人の家へ立ち寄り、主人は来訪に驚きながら迎え入れた。利休は、突然の訪問にもかかわらず手入れされている邸内や、庭で柚子の実を取り料理に柚子味噌を出す主人のとっさの客をもてなせる趣向に喜んだが、料理に当時は高級品で日持ちもしない蒲鉾が出されたところで顔色を変えた。実は主人は利休がこの日に自邸のそばを通ることをあらかじめ知っており、準備を整えたうえで素知らぬ態で突然の客でも十分にもてなすことが出来るように見せかけていただけだったのである。蒲鉾が用意されていたことからそれを察した利休は、わざわざ驚いたように見せた主人の見栄に失望し、その場で退席した(『茶話指月集』)。
  • 福島正則細川忠興が茶人の利休を慕っていることを疑問に思い、その後忠興に誘われ利休の茶会に参加した。茶会が終わると正則は「わしは今までいかなる強敵に向かっても怯んだことはなかったが、利休と立ち向かっているとどうも臆したように覚えた」とすっかり利休に感服していた[39]
  • 切腹を命じにきた秀吉の使者に対しても動じず「茶室の鍵をなくしました」と述べた[40]

  1. ^ 近年、日本茶道史研究家の中村修也文教大学教授)は『時慶記』の記述や豊臣秀吉発大政所宛書状の内容などを論拠として、利休はこの時死なずに失踪し、消息不明となったという説を唱えている[18]
  2. ^ 桑田忠親は、「ある長編の歴史小説で試みられた作家のフィクションであって、史実ではない」と否定している[29]。なお、その歴史小説とは、野上彌生子『秀吉と利休』を指す。
  3. ^ 毘沙門町および葭屋町通元誓願寺下ル町の晴明神社の近くにあったという。また『聚楽古城図』(国立国会図書館・広島県立図書館など蔵)によれば、聚楽第北御門横の元誓願寺通下る大宮通東付近にあったと推定される。


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