北原阿智之助
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生涯
信濃国伊那郡座光寺村(現長野県飯田市)に庄屋の北原稲雄の次男として生まれ[1]、明治20年(1887年)同郡上郷村の同族北原家の養子となる[1]。
明治14年(1881年)に上京し、渡辺重石丸の道生館に学び、一旦帰郷、同18年(1885年)に再び上京して成立学舎、築地の英学校に学ぶ。和歌を海上胤平、俳句を正岡子規に師事する。同23年(1890年)雑誌「正気」を発行、子規の「日本新聞」俳句欄に投稿し、同30年(1897年)飯田で「松声会」を結成した。同35年(1902年)には伊那史料刊行会を設立し「伊那名勝志」を発行、菱田春草が挿絵を担当した。
上郷村会議員、村助役、村長、下伊那郡会議員を歴任し、同36年(1903年)長野県会議員に初当選。昭和5年(1930年)、第17回衆議院議員総選挙に初当選し、3期務める。
その他、下伊那国民精神作興会理事長、天竜社会長、大日本実行会創立委員などを務め、産業の開発にも貢献した。
係累
参考文献
- 1 北原阿智之助とは
- 2 北原阿智之助の概要
- 北原阿智之助のページへのリンク