函谷関
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/13 02:18 UTC 版)
名称
「函谷関」の名称
旧関付近で、黄土層の切り立った崖の中を数キロメートルにわたって街道が通る地形が、あたかも函の中を行くのに似ているとしてこの名が生まれた[注釈 1][1][2]。
『水経注』[注釈 2]や『元和郡県志』[注釈 3]には、崤山 (zh) から潼津にかけての地域を押しなべて「函谷関」と呼ぶ、と記されている[5]。
この地域の関塞は時代や政治状況によって数度にわたって移転したり、複数の関塞を併用していたりしている[6]。歴史地理学・考古学者の塩沢裕仁は、「桃林塞」「函谷関」「潼関」が一つのものとして理解され[7]、現在の潼関県から河南省三門峡市霊宝市までの広範な地域が「函谷関」と称されてきたこと[8]に注意を促している。
文学的には「函関」などの名称も用いられた。
新旧の区別
- 「旧関」については「古関」[4]「故関」[3]、「周函谷関」[9]「秦函谷関」[9]などの名称も用いられる。
- 「新関」(現在の河南省洛陽市新安県城関鎮東関村)については「漢函谷関」[9]の名称も用いられる。
華北を東西に分かつ境界
函谷関は、華北を東西に分かつ境界ともされた。
注釈
- ^ 「函谷関城,路在谷中,深険如函,故以為名。其中劣通,東西十五里,絶岸壁立,崖上柏林蔭谷中,殆不見日」『元和郡県志』巻六。『西征記』よりの引用(中文版Wikisource)
- ^ 「河水自潼関東北流,水側有長坂,謂之黄巷坂。坂傍絶澗,陟此坂以升潼関,所謂泝黄巷以済潼矣。歴北出東崤,通謂之函谷関也」『水経注』巻四(中文版Wikisource)
- ^ 「東自崤山,西至潼津,通名函谷」『元和郡県志』巻六。『西征記』よりの引用(中文版Wikisource)
出典
- ^ a b c d e “函谷関”. 百科事典マイペディア(コトバンク所収). 2020年1月16日閲覧。
- ^ a b c “函谷関”. 世界大百科事典 第2版(コトバンク所収). 2020年1月16日閲覧。
- ^ a b “函谷関”. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典(コトバンク所収). 2020年1月16日閲覧。
- ^ a b c “函谷関”. 日本大百科全書(ニッポニカ)(コトバンク所収). 2020年1月16日閲覧。
- ^ 塩沢裕仁 2016, pp. 502, 473.
- ^ 塩沢裕仁 2016, p. 501.
- ^ 塩沢裕仁 2016, p. 472.
- ^ 塩沢裕仁 2016, pp. 468–467.
- ^ a b c d 塩沢裕仁 2016, p. 502.
- ^ 塩沢裕仁 2016, p. 496.
- ^ 塩沢裕仁 2016, p. 495.
- ^ 塩沢裕仁 2016, pp. 495–494.
- ^ 塩沢裕仁 2016, p. 466.
- ^ a b c 塩沢裕仁 2016, p. 499.
- ^ “一夫当关万夫莫开——记者“亲叩”函谷关(图)”. 荊楚网 (2005年5月24日). 2020年1月16日閲覧。
- ^ 塩沢裕仁 2016, pp. 483–482.
- ^ 塩沢裕仁 2016, p. 483.
- ^ 塩沢裕仁 2016, pp. 482–479.
- ^ a b 塩沢裕仁 2016, p. 482.
- ^ 塩沢裕仁 2016, pp. 475–473.
- ^ a b c 塩沢裕仁 2016, p. 484.
- ^ 塩沢裕仁 2016, pp. 492, 490, 487.
- ^ a b 塩沢裕仁 2016, p. 494.
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