人見神社 人見神社の概要

人見神社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/13 04:44 UTC 版)

人見神社


拝殿

所在地 千葉県君津市人見892番地
位置 北緯35度20分13.7秒 東経139度52分2秒 / 北緯35.337139度 東経139.86722度 / 35.337139; 139.86722座標: 北緯35度20分13.7秒 東経139度52分2秒 / 北緯35.337139度 東経139.86722度 / 35.337139; 139.86722
主祭神 天之御中主命高皇産霊命神皇産霊命
社格郷社
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祭神

天之御中主命高皇産霊命神皇産霊命を祭神とする。

由緒

人見神社は、小糸川の河口、東京湾を望む人見山の頂上に鎮座し、古くから両総六妙見(上総の人見神社・久留里神社・横田神社、下総の千葉神社・飯高神社・印西妙見宮)の1社として、人々の崇敬を集めてきた。

別当・青蓮寺の「妙見縁起」によれば、人見神社は奈良時代以前、孝徳天皇の代に日向国より勧請されたとされる。または、昔、近隣の大堀の地で太右衛門が草刈をしていて妙見像を見つけ、市右衛門と相談して人見山に祀ったという「妙見隠し」の伝承も残されている。

天慶3年(940年)、平忠常が上総介として赴任した際、武蔵国より妙見の神霊を上総・下総各地に勧請したが、人見神社はその中の代表的な一社である。忠常の祖父は千葉氏の祖・平良文で、東国へ下って妙見菩薩を祀るなど、代々、妙見信仰の念が篤かった。

源頼朝も治承四年(1180年)、石橋山の戦いに敗れ、再起を期して内房を舟で進軍の折、小糸川河口に着岸し、当社に武運長久の祈願文を捧げたと伝えられている。

天正19年(1591年)には徳川家康より良田五石の朱印の寄贈があり、元禄4年(1691年)には君津地方の領主、小笠原彦太夫より大刀の献納があった。小笠原氏はそれ以来、例祭に奉幣参拝を欠かさず、寛政9年(1797年)には、小笠原兵庫と氏子らが春日造の社殿を造営した。

明治に入ると神仏分離の国策を受けて人見神社となり、妙見菩薩は観音堂に祀られることとなった。

境内




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