井笠鉄道機関車第2号形蒸気機関車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/16 02:12 UTC 版)
運用
入線後、早速本線運用に投入されたが、特にバック運転時などに脱線事故が多発して死傷者を出した[8]ため、4を「死」に通じるとして忌番扱いにし、本形式は1927年6月21日に鉄道省へ番号変更届を提出して[9]8(初代)に改番された。
しかし、当然のことながらこれは問題の根本的な原因、つまり機関車本体の構造的な欠陥の是正を図るものでは無く、何ら問題の解決には寄与しなかった。
このため改番後も脱線癖は全く解消されず、結局本形式はコッペル製の準同級機である6・7が出揃った段階で事実上不要となった。
更にその後、旅客列車の頻発運転用としてガソリンカーの導入が進んだことから最終的に1935年2月25日付で除籍[10]された。
譲渡
廃車後、本形式は車両ブローカーとして有名であった小島栄次郎工業所経由で佐世保鉄道に売却されて同社19となり、更に同社線の戦時買収にかかる国有化で国鉄狭軌軽便線用機関車としての形式が与えられて形式ケ218形、記号番号ケ219[11]となった。
以後、松浦線となった旧佐世保鉄道線区間の改軌工事進展で1944年に廃車となり、翌1945年3月に日本鉱業佐賀関鉄道に払い下げられて同社ケ219となった後、1950年まで使用された。ところが、戦時体制下での戦略物資輸送に関わる路線への払い下げであったためか入線にあたって何らかの錯誤があったらしく、同車については各種認可申請手続きが行われなかった。その後は未認可のまま公然と使用され、廃車に当たっても(そもそも設計認可手続きが行われていないため)廃車届が運輸省に受理されなかった。最後はうやむやのままになったようである。
廃車後の処置は解体である。
- ^ 帝国海軍制式の艦本式水管缶の基本となったもので、所長の宮原二郎予備役機関中将(当時。元艦政本部第四部長)が海軍時代に輸入品のヤーロー缶などを参考に開発した。横管式水管ボイラーの一種。6本の円筒形管とそれらを斜めに結ぶ長管、それに垂直に結ぶ短管で構成され、上部の2本の円筒形管が煙管ボイラーにおける蒸気溜の役割を果たす構造であった。
- ^ 機構としては一般家庭で用いられている瞬間湯沸かし器と同様で、水を通した細管をボイラー内に螺旋状に配置して熱を水に伝達、沸騰させる。
- ^ 欧米においても(超高圧ボイラーとしての採用であったが)艦船用水管ボイラーを転用搭載した蒸気機関車はいずれも量産段階に到達せず試作に終わっている。
- ^ 例えば、有田鉄道2となったB型8.5t機は不具合多発のため、わずか数年で通常の煙管ボイラーへの載せ替えを実施している。
- ^ 当時第1次世界大戦の影響で輸送量が増大し各鉄道の購買力は上昇していたものの、戦場となったヨーロッパメーカーからの機関車輸入は途絶し中古市場においても価格が高騰していたため、やむなくドイツ製機関車購入を断念して大日本軌道や日本車輌製造などの国内メーカー製機関車を購入する鉄道会社が相次いだ。
- ^ 水タンク容積は1.59立方メートルで井笠の機関車中最大を記録した。
- ^ この当時、両社とも車両総数は34両で同一であったが、直通運転に使用される客貨車の両数が両備の方が多く、そちらに合わせることになったという。
- ^ 動輪のフランジ形状が井笠の軌道条件に対して不適切であったのが一因とされるが、ウェルタンクを持たず大型のサイドタンクのみとした高重心設計や第3動軸から後端部までのオーバーハング過大なども脱線多発の一因と考えられている。
- ^ 同月24日認可。
- ^ 同月21日届出。ただし現車はそれ以前に売却処分されており、後追いでの書類手続きで処理された。規模の小さな地方私鉄では同様の例は少なくなく、中には譲渡先での設計認可申請時に譲渡元が除籍手続きを怠っていることが指摘され、慌てて手続きを取る、といったケースさえ存在した。
- ^ 後述するように偶然ながら佐世保鉄道には本形式と同一設計の宇和島鉄道4→国鉄ケ230形230→佐世保鉄道18が在籍しており、同型機であったことからケ218形218・219と連番で付番されていた。
固有名詞の分類
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