三谷坂 (高野参詣道)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/18 01:07 UTC 版)
沿道の主な名所
- 丹生酒殿神社:丹生都比売神が降臨した場所と伝わり、三谷坂の起点となる。境内のシンボルの大銀杏が紅葉時に境内を黄色に染める。境内後方の境内社の鎌八幡宮は、御神木に鎌を刺し願掛けすることで知られる(詳細は丹生酒殿神社参照)。
- 宮滝:丹生酒殿神社が丹生都比売神社に属していたころ、丹生都比売神社神主がこの滝でキュウリを供え神事を行い、神事後に供えられていたキュウリを村中の子供に食べさせると、疱瘡(天然痘)が軽くなったと伝わる。また紀伊続風土記には、宮ノ滝とも書かれており、「河童の患いも免れた」との記述が残る[注 4]。
- 笠石(南北朝時代):下部を地中に埋め込む埋込式の笠塔婆で、塔身高112cm、塔身幅15cm、笠幅65cm。空海の笠が雨引山から風に飛ばされてこの石に掛かったと伝わる。塔身の上部に阿弥陀如来座像が半肉彫され、その形態から、南北朝時代のものと推定される。通常は、宝珠が笠の上に飾られるが、塔身の上端を尖らせ笠を突きやぶる特異な形態で、笠も、ほぼ自然石のままの特異な形状で、軒などの加工は施されていない。これは笠塔婆が、木製から石製に置き換えられた原初形態の可能性が考えられ、全国的に見ても非常に貴重である[注 4]。
- 鋒立て岩・経文岩:鋒立て岩は、丹生都比売神が鋒を立てたと伝わる岩。元は現在よりも大きかったが、道路工事の際に切断され現在の形状となった。鋒の御跡岩ともいわれ、紀伊続風土記に「榊山の南 権兵衛坂といふにあり 丹生都姫尊天野へ御通ひの印石といふ岩に鋒の跡あり」と記されている。経文岩は、経文が書かれた岩を意味すると考えられるが、岩に文字が刻まれた痕跡が確認できていない[注 4]。
- 涙岩:かつてこの谷を流れる清水は、どんな日照りでも涸れず、人々の渇きをいやし田畑を潤してきた。 そのため、いつの頃からか村人はこの岩を涙岩と呼び、岩をつたって流れ落ちる水を拝水と呼ぶようになったと伝わる[注 4]。
- 頰切地蔵(鎌倉 時代初期):一重塔を自然石から造り出し、北正面 に金剛界大日如来、東側面に釈迦如来、 西側面に阿弥陀如来を半肉彫し、南背面は 自然石のままである。仏像の立体的形態や、笠の形態から鎌倉時代初期と推定される。大日如来の頬の割れ目が傷のように見え、首から上の病に御利益があるとされ、頰切地蔵と呼ばれるようになったと伝わる[注 4]。
- まっとう岩:見上げるほどの巨石である。この周辺が杉林となる前までは、遠く紀の川の対岸からも見えたため、天野の丹生都比売神社を目指す参詣者の目印となったと伝わる。「まっとう」の語源は不詳であるが、目印という意味で「的」を意味するとも考えられている[注 4]。
- 丹生都比売神社:丹生都比売神の鎮座地とされる。空海が金剛峯寺を建立するにあたって丹生都比売神社が神領を寄進したと伝わり、古くより高野山と深い関係にある。かつて高野山参詣前に、まず丹生都比売神社に参詣する習わしがあった。
注釈
出典
- ^ a b “世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の追加登録について”. 和歌山県教育委員会/文化遺産課. 2019年12月25日閲覧。
- ^ 入谷 2019, pp. 48–49.
- ^ a b c “和歌山県街道「高野七口」”. 和歌山県伊都振興局. 2020年1月30日閲覧。
- ^ “高野参詣道(こうやさんけいみち)”. 和歌山県世界遺産センター. 2019年12月26日閲覧。
- ^ a b c d e 入谷 2019, p. 49.
- ^ “三谷道(勅使坂)”. かつらぎ町商工会. 2019年12月26日閲覧。
- ^ “三谷坂、高野山への参詣道”. かつらぎ町教育委員会 生涯学習課、産業観光課. 2019年12月26日閲覧。
- ^ a b c “高野山結界道、不動坂、黒河道、三谷坂”. 和歌山県教育委員会. p. 37 (2012年). 2019年12月26日閲覧。
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