モスクワ・リトアニア戦争 (1368年-1372年)
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第三次遠征
1372年になってトヴェリとモスクワとの間で争いが勃発した。アルギルダスは最初に自身の長子であるポラツク公アンドリュス、弟であるケーストゥティスとその息子のヴィータウタス、及びドミトリユス・ドゥルツキスを派遣し、それから遅れて自身がリュブトゥスクへ向かって進軍した。同都市にてリトアニア軍とトヴェリ軍が合流したその後にドミートリー率いるモスクワ軍が密かに接近してきた。リトアニアの警備兵達はモスクワ軍によって壊滅させられた。両軍ともその場を離れて互いにそれぞれの深い窪地を前にして対峙した。数日後になって両者の間で7月31日から10月31日までの休戦が結ばれた。条約はアルギルダス、ケーストゥティス兄弟及びスモレンスク公スヴャトスラフの名で証明されたが、そこにはトヴェリ大公ミハイル、ブリャンスク公ドミートリー、その他諸侯も含まれていた。アルギルダスは、ミハイルのモスクワに奪われた領地の奪還に関しては彼自身に委ねることにし、仮にミハイルがモスクワとの間で戦を起こさなかったとしてもそれに介入しないことにした。
最後の出来事
1371年にアルギルダスはコンスタンティノープル総主教庁に対して、キエフにスモレンスク、トヴェリ、ノヴォシリ及びニジニ・ノヴゴロドの領域を加えた形で独自の府主教座を設置してくれるよう頼んだ。これは1373年から1375年の間にキプリアンをキエフ=リトアニアの府主教の座に据えることで達成することが出来たが、アルギルダスのこの行為はドミートリーの有志であるアレクシー府主教没後に新たな全ルーシの府主教の擁立を見据えてのことであった。
1375年にミハイルがジョチ・ウルスのヤルリクからヴラディーミル大公位を拝領してトヴェリ軍がトルジョークとウグリチを攻撃するとドミートリーは北東ルーシ、スモレンスク公国、ブリャンスク公国並びにオカ川上流公国群の戦力を加えた軍勢を引き連れてトヴェリに進軍して包囲した。それに続くトヴェリに対するアルギルダスの軍事的行動(結局は衝突することもなく撤退した)に関して歴史家の間では伝統的に[2]1372年の休戦条約を破ってまでのミハイルへの援助は不成功な試みであったと解釈されている。実際にアルギルダスはトヴェリへの遠征軍でもってスモレンスク公国を荒らし回っていた[6]。最終的にミハイルはモスクワ大公の長上権を認め、その反リトアニア同盟に加わることを余儀なくされた。
脚注
- ^ Все монархии мира
- ^ a b Разин Е. А. История военного искусства
- ^ Шабульдо Ф. М. Земли Юго-Западной Руси в составе Великого княжества Литовского
- ^ Хроника Быховца. М. Наука. 1966. Предисловие
- ^ [kamunikat.org/download.php?item=9432-1.pdf&pubref=9432 КАРОТКІ АГЛЯД ГIСТОРЫI БЕЛАРУСI Кливленд-Нью-Йорк 1968 г. С. 26]
- ^ Соловьев С. М. История России с древнейших времен, т.3 гл.7
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