ホルヘ・バルディビア クラブ歴

ホルヘ・バルディビア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/20 09:15 UTC 版)

クラブ歴

初期の経歴

チリ人の両親の下ベネズエラのマラカイに生まれ、年少時代にチリの首都サンティアゴに移住した。1990年、7歳でCSDコロコロの下部組織に加わり、2002年6月にトップチームに昇格したが、経験を積むため、また素行の問題などによりCDウニベルシダ・コンセプシオンにレンタル移籍した。レンタル元のコロコロとの試合でプロデビューを果たし、その試合に1-1で引き分けた。技術の高さですぐに好印象を与え、2003アペルトゥーラを通してレギュラーポジションを維持すると、クラブ史上初のコパ・スダメリカーナ出場権獲得に貢献した。クラウスーラでも満足のいくシーズンを過ごしコロコロ復帰話も浮上したが、スペインのラージョ・バジェカーノやスイスのセルヴェットFCにレンタル移籍した。

コロコロ

2シーズンをヨーロッパでプレーし、2005年にコロコロに復帰した。同年1月にはアルゼンチンのボカ・ジュニアーズが移籍金150万ドルで予備登録したが、最終的にコロコロが保有することを決定した。3月13日、エスタディオ・モヌメンタル・ダビド・アレジャーノで行われたCDコブレロア戦 (2-0) で公式戦デビューした。CDウニオン・サン・フェリペ英語版戦 (3-2) では89分に移籍後初得点となる決勝点を挙げた。アペルトゥーラでは出場機会を欠いたが、クラウスーラでは16試合の出場でチームトップの9得点を挙げた。翌シーズンにクラウディオ・ボルギ監督が就任するとプレーメーカーのポジションに定着し、いっそうの出場機会を得た。チームにとって鍵となる選手であり、マティアス・フェルナンデスやゴンサロ・フィエーロらとともに中盤で強力なトリオを構成した。2006年4月16日のCDウニベルシダ・カトリカとのダービー (2-3) では、ルベン・セルマン英語版主審の疑惑の判定の渦中の人となった。

パウメイラス

2006年8月5日、カンピオナート・ブラジレイロ・セリエASEパウメイラスと年俸40万ドルで3年契約を結んで完全移籍した。移籍金は350万ドルであり、外国人選手に支払った金額としてはクラブ史上最高額であった。プレシーズンのECサント・アンドレ戦 (2-0) でデビューを飾り、チッチ監督は「バルディビアのブラジルでの成功は疑いの余地がない」と断言した。エスタジオ・ド・マラカナンで行われたボタフォゴFR戦 (3-1) で公式戦初出場を果たしたが、初年度は公式戦15試合・非公式戦1試合に出場したのみであり、得点を挙げられなかった。カイオ・ジュニオール監督が就任すると背番号10を与えられて先発メンバーに固定され、2007年1月16日のリオ・ブランコEC戦 (2-1) で移籍後初得点を挙げた。SCコリンチャンス・パウリスタ戦 (3-0) ではエジムンドのハットトリックをすべてアシストする活躍を見せ、試合後にはカイオ・ジュニオール監督に「バルディビアはカルロス・テベス後のブラジルサッカー界のニュースターだ」と称された。5月20日のフィゲイレンセFC戦 (2-1) では2得点を挙げた。12月3日、カンピオナート・ブラジレイロの最優秀選手賞を受賞した。同月にはウルグアイのエル・パイス紙によって南米ベストイレブンに選出され、南米最高のミッドフィールダーとみなされた。2008年1月21日、TV GazetaによるMesa Redonda賞を受賞し、カンピオナート・ブラジレイロの最優秀ミッドフィールダーに選出された。

カイオ・ジュニオールが去り、ヴァンデルレイ・ルシェンブルゴ監督が就任すると、エンリケディエゴ・ソウザを獲得して2008年のカンピオナート・パウリスタに臨んだ。バルディビアは相変わらず素行面で問題があり、新監督に精神面でのいっそうの成熟を期待された[要出典]。2月16日、CAジュベントス戦 (4-0) で新シーズンの初得点を挙げた。カンピオナート・パウリスタでは活躍を見せ、アレックス・ミネイロに次ぐチーム2位の9得点を挙げると、クラブは州選手権王者となった。2008年のセリエAでは、バレンタインデークルゼイロEC戦 (5-2) で得点し妻に捧げた。8月3日、イパチンガFC戦 (2-1) で2得点を挙げ、ボタフォゴFR戦がセリエAでの自身最終戦となった。

アル・アイン

ドイツのヴェルダー・ブレーメンヘルタ・ベルリン、スペインのRCDエスパニョールなどが獲得に興味を示す中、2008年8月15日にUAEリーグアル・アインFCと年俸170万ユーロでの4年契約を結んだ。移籍金は800万ドル。8月下旬にチームに合流し、アイントラハト・フランクフルトとのプレシーズンマッチを戦った。アル・ジャジーラSC戦 (4-2) で公式戦デビューし、直接フリーキックによって初得点を挙げた。12月1日には国際サッカー歴史統計連盟 (IFFHS) によって世界で14番目に人気のある選手に選出された[3]。2009年7月3日、エティサラート・エミレーツ・カップでライバルのアル・ワフダSCCを1-0で破って優勝した。自身は足首の負傷が完治していなかったが、試合に出場して28分に決勝点をアシストしている。プレジデント・カップ決勝ではアル・シャバーブと対戦し、アンドレ・ディアスのPKによる得点を守り切って優勝した。加入して1年も絶たずにチームのトップアイドルとなり、ユニフォームなどの関連商品の売り上げでもチームトップであった。クラブの公式ウェブサイトではクラブ史上最高の選手と紹介された。モハメド・ビン・サイェド・アル・ナーヤン会長は生涯契約をオファーしたが、これを断った。9月15日、リーグ最優秀選手賞を受賞した。9月23日、UAEスーパーカップでアル・アハリ・ドバイをPK戦の末に破って優勝した。2010年シーズンはキャプテンに就任した。

パウメイラス復帰

2010 FIFAワールドカップ期間中にはパウメイラス復帰の可能性が常に取り沙汰され、7月26日に5年契約を結んで完全移籍した。移籍金は1600万ドル[4]。8月14日のエスタジオ・ド・パカエンブーでのアトレチコ・パラナエンセ戦後、15,000人のファンに迎えられた。2010年8月22日、グアラニFC戦 (0-0) で後半から出場して復帰後初出場を果たし不安定なプレーぶりは批判されたが、それでもファンからは復帰を歓迎された。9月5日のクルゼイロEC戦では65分にベンチに下がり、ルイス・フェリペ・スコラーリ監督の采配に不満を露わにするために水の入ったペットボトルをグラウンドに投げた。9月12日、CRヴァスコ・ダ・ガマ戦 (0-0) がパウメイラスでの100試合目となった。ECヴィトーリア戦後には「クルゼイロ戦での態度は繰り返さない」と述べ、スコラーリ監督に謝罪した。10月7日、アヴァイFC戦 (4-1) では2得点を挙げた。10月24日のコリンチャンス戦で負傷し、チームよりひと足早くシーズンを終えた。12月には全ての選手に対してクラブから「(休暇の過ごし方に)注意するように」という手紙が届いたが、その手紙にサインすることを拒否した。後にバルディビアは、「休暇に際してこのような手紙を押しつけることは、クラブから選手に対しての信頼の欠如である」と述べ、パウメイラスの首脳陣は「彼らの批判は不当なものであり、クラブにふさわしくない選手はいらない」と反論した[5]

2011年初頭にはコパ・リベルタドーレスに出場するフルミネンセFCからオファーが届いたが、オファーを拒否してパウメイラスに残った。3月9日、カンピオナート・パウリスタのECノロエスチ戦では直接フリーキックから得点し、さらに85分に若手のヴィニシウス英語版の決勝点をアシストした。シーズン終了後に他クラブに移籍する可能性が浮上したが、3月24日にアルナウド・ティローネ会長によって移籍話は否定された[6]。4月14日、コパ・ド・ブラジル準々決勝ECサント・アンドレ戦ファーストレグではピッチに放尿した[7]。セカンドレグでは卓越した働きを見せて1-0で勝利し、スコラーリ監督によってネイマールと比較された。10月、妻以外の女性とキスしている写真がブラジルの雑誌に掲載された[8]。2012年6月、妻やふたりの子どもと一緒に強盗に誘拐され、2時間ほど拘束された後に無事解放された[9]

アル・ワフダ

2015年7月12日にアル・ワフダ・アブダビに2年契約で移籍しUAEに復帰[10]ハビエル・アギーレ監督の下、ハンガリー代表FWジュジャーク・バラージュらと共に2016年にエティサラート・エミレーツ・カップ、2017年にはプレジデントカップ優勝に貢献。2シーズンで公式戦合計41試合に出場し、9ゴール15アシストを記録した。2017年5月に契約を満了し、アール・ナヒヤーン・スタジアムを後にする[11]

コロコロ復帰以降

2017年6月、11年振りにコロコロへ復帰することが発表された[12]

2020年1月、リーガMXモナルカス・モレリアに加入。コロコロ時代の指揮官パブロ・ゲデ英語版と再会した[13]。7月にクラブが移転し新設されたマサトランFCで引き続きプレー。12月よりコロコロに2度目の復帰となった[14]


  1. ^ El desconocido origen venezolano de Jorge Valdivia
  2. ^ Jorge Luís Valdivia Toro SEパウメイラス公式サイト
  3. ^ The World‘s Most Popular Footballer Amongst Currently Active Players in 2008 IFFHS
  4. ^ “Al Ain's Valdivia returns to Brazil”. The National. (2010年7月27日). http://www.thenational.ae/sport/uae-sport/al-ains-valdivia-returns-to-brazil 
  5. ^ “Jorge Valdivia threatens Palmeiras exit over lack of respect”. Goal.com. (2010年12月21日). http://www.goal.com/en/news/584/brazil/2010/12/21/2271445/jorge-valdivia-threatens-palmeiras-exit-over-lack-of-respect 
  6. ^ “Palmeiras deny plans to sell Jorge Valdivia”. Goal.com. (2010年3月24日). http://www.goal.com/en/news/584/brazil/2011/03/24/2409394/palmeiras-deny-plans-to-sell-jorge-valdivia 
  7. ^ “Jorge Valdivia urinates on the pitch”. Footballstreams.org. (2011年4月14日). http://footballstreams.org/blog/football-videos/footballer-takes-pee-at-pitchside/ 
  8. ^ キス写真を公表され泣いて謝罪したチリ代表MF”. Qoly.jp (2011年10月29日). 2012年7月8日閲覧。
  9. ^ バルディビア、銃を持った強盗に監禁される”. Qoly.jp (2012年6月9日). 2012年7月8日閲覧。
  10. ^ Al Wahda publica imagen del ‘Mago’ Valdivia con la camiseta oficial del club”. Radio Agricultura (2015年7月12日). 2016年2月28日閲覧。
  11. ^ Al Wahda say goodbye to Valdivia”. Khaleej Times (2017年5月27日). 2021年1月13日閲覧。
  12. ^ Colo-Colo anuncia acordo para volta de Valdívia ao Chile após 11 anos”. ESPN (2017年6月19日). 2021年1月13日閲覧。
  13. ^ El Mago Valdivia es nuevo jugador de Morelia”. Mediotiempo (2020年1月3日). 2021年1月13日閲覧。
  14. ^ Valdivia vuelve a Colo Colo”. AS.com (2020年11月30日). 2021年1月13日閲覧。
  15. ^ スイス、ゴンサレスの1点に屈す”. UEFA.com (2010年6月21日). 2012年7月8日閲覧。
  16. ^ ブラジル完勝、ベスト8でオランダと対戦”. Goal.com (2010年6月29日). 2012年7月8日閲覧。
  17. ^ チリ代表監督にボルギ氏が就任”. Goal.com (2011年2月19日). 2012年7月8日閲覧。
  18. ^ ビダルがチリ代表から追放 監督は「酔っていた」”. livedoorスポーツ (2011年11月10日). 2012年7月8日閲覧。
  19. ^ La oncena ideal de la Copa América 2011Emol.com





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