ヘンリー四世 第1部
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/17 06:58 UTC 版)
あらすじ
イングランド王ヘンリー四世となったヘンリー・ボリングブルックだが、その地位は盤石とは言えなかった。リチャード2世を廃位させて王冠を得たことへの王自身の心の動揺を十字軍遠征で解決しようとしたが、スコットランドおよびウェールズ両国境での騒乱によってそれもできずにいた。罪の意識はさらに、ヘンリー四世が王位に就くのを助けたパーシー家のノーサンバランド伯ならびにウスター伯、先王リチャード二世から正当な王位後継者との宣言を受けたマーチ伯エドムンド・モーティマーを冷遇した。
さらにヘンリー四世を悩ませていたのが皇太子のハル王子(後のヘンリー五世)だった。ハル王子はごろつきどもと居酒屋などで遊び回っていた。ハルの一番の親友がサー・ジョン・フォルスタッフで、でぶで呑兵衛で、もう若くもないが、そのふてぶてしい生き様は、格式ばった王宮で生きてきたハル王子には魅力的だった。
向こう見ずで勇敢なハリー・"ホットスパー"・パーシーは、父親のノーサンバランド伯、叔父のウスター伯、それにスコットランドのダグラス伯、モーティマー、ウェールズのグレンダワーと共謀して、ヘンリー四世に対して反乱を起こした。
ハル王子はヘンリー四世と、フォルスタッフも道中徴兵をしながら(しかし兵役逃れの賄賂で懐を肥やしながら)、戦場であるシュールーズベリーへ向かった。
その戦場でハル王子は同じ名前(ハリー)のホットスパーと一騎討ちの末、倒し(フォルスタッフはそれを自分の手柄に見せかけようとし)、戦いはヘンリー四世の勝利に終わった。
テーマと解釈
最初の出版の時の題名は『ヘンリー四世記(The History of Henrie the Fourth)』で、表紙には「ヘンリー・パーシー(ホットスパー)」「ジョン・フォルスタッフ」の名前もあるが、「ハル王子」の名前は見えない。現在では、観客も役者もハル王子は成人に達しているという解釈で、この劇の真の主役はハル王子であると見ているが、それまでは、ジェームズ・クイン(James Quin)やデヴィッド・ギャリックらがホットスパーを演じたころから、ハル王子はあくまで脇役の一人でしかなかった。
「成人に達している」という解釈で、フォルスタッフとのつきあいや居酒屋の庶民生活はハル王子に人間味と、エリザベス朝の人間観を与える[6]。最初、ハル王子は熱烈なホットスパーと較べると迫力に欠けているように見える(なお、シェイクスピアはハル王子との引き立て役のつもりでホットスパーを実際の年齢より若く、23歳くらいに描いている。ちなみにハル王子の実際の年齢は16〜17歳)。多くの人はこの歴史劇をハル王子が成長してヘンリー五世になる話と解釈することだろう[7]。ハル王子は中世イングランドの政治活動に『聖書』などの「放蕩息子の寓話」をあてはめた、シェイクスピアの全登場人物中おそらく最も英雄的な登場人物である[8]。しかし、ハル王子を批判的に、芽を出しかけたマキャヴェッリと見る者もいて、そう考えて読むと、それは「理想的な王」ではなく、フォルスタッフを徐々に拒否していくことは冷たい現実政策(Realpolitik)を選ぶ、ハル王子の人間性の拒否と取れる[9]。
オールドカースル論争
1597年の初演時、『ヘンリー四世 第1部』はある論争を引き起こした。現存しているテキストでは「フォルスタッフ」となっている滑稽なキャラクターは、最初は「オールドカースル(Oldcastle)」という名前で、有名なプロテスタントの殉教者のジョン・オールドカースルがそのモデルだった。この名前の変更についての言及は、リチャード・ジェームズの『Epistle to Sir Harry Bourchier』(1625年頃)や、トマス・フューラーの『Worthies of England』(1662年)に見られるし、シェイクスピア本人も『ヘンリー四世 第2部』(1600年)の第1幕第2場のフォルスタッフの台詞の1つで、喋る役名が「Falst.」でなく「Old.」になっているところがある。さらに、第3幕第2場25-26行では、フォルスタッフは「ノーフォーク公トマス・モーブレーの小姓」だったと書かれていて、それは他ならぬ本物のオールドカースルのことである。一方、『ヘンリー四世 第1部』第1幕第2場42行で、ハル王子はフォルスタッフのことを「my old lad of the castle(直訳「我が古き城の男」)」と呼んでいる。また、第1部・第2部両方の弱強五歩格詩行は、「Fal-staff」だと不規則だが、「Old-cas-tle」だと正しくなる。さらに『ヘンリー四世 第2部』のエピローグ29-32行にはわざわざ「オールドカースルは殉教したので、これはその男ではない」とわざわざ書かれてある。
名前の変更と『ヘンリー四世 第2部』のエピローグの弁明は政治的な圧力によるものと一般的に考えられている。実在のオールドカースルはプロテスタントの殉教者であるだけではなく、コブハム男爵(コバム)(Baron Cobham)という貴族で(実際には妻のジョーン・オールドカースルが第4代コブハム女男爵)、その子孫がエリザベス朝当時のイングランドにいた。第10代コブハム男爵ウィリアム・ブルックは五港長官(Lord Warden of the Cinque Ports、任期:1558年 - 1597年)、ガーター勲章騎士(1584年叙勲)、枢密院(Her Majesty's Most Honourable Privy Council)メンバーで、その息子の第11代コブハム男爵ヘンリー・ブルックは父の死後五港長官のポストに就き、1599年にはガーター勲章騎士を叙勲していた。さらにウィリアムの妻でヘンリーの母フランセス・ブルックはエリザベス1世の個人的なお気に入りだった。
ウィリアム・ブルックはシェイクスピアや同時代の演劇人に強い影響を与えていた。シェイクスピアがリチャード・バーベッジ、ウィリアム・ケンプ(William Kempe)らと1594年に結成した一座は、初代ハンスドン男爵ヘンリー・ケアリーの後援を受けたが、彼が宮内長官(宮内大臣)になったので、一座が宮内大臣一座として知られるようになったのは有名な話である。ところが、1596年7月22日にハンスドン男爵が亡くなり、代わって宮内大臣になったのがコブハム男爵ウィリアム・ブルックで、一座の友人ではなく、公的な保護も撤回した。一座はシティ・オブ・ロンドン市当局(一座をシティからずっと追い出したかった)の意のままになった。トマス・ナッシュ(Thomas Nashe)はある書簡の中で、役者たちは「市長と市会議員によって痛ましくも迫害されている」と書いている。しかし一座にとって、ひいては英文学にとって幸運だったのは、1年後にコブハム男爵が亡くなって、ハンスドン男爵の子である第2代ハンスドン男爵ジョージ・ケアリーが宮内大臣に就任したことである。こうして一座は再び後援を得ることができた[10]。
「オールドカースル」という名前は、パテーの戦いで臆病者と取りざたされ、以前『ヘンリー六世 第1部』に登場させていた実在の人物、サー・ジョン・ファストルフ(John Fastolf)を元に、「フォルスタッフ(Falstaff)」に変更された。ファストルフは子孫を残さず死んだので、安全でもあった。
まもなくして劇作家チームが2部からなる『サー・ジョン・オールドカースル』という戯曲が1600年に出版された。この芝居ではオールドカースルの生涯がヒロイックに描かれている。
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