トゥルダ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/23 05:45 UTC 版)
歴史
古代
このまちはダキア人によって、Patavissa[2] または Potaissa (もっともよくみられる表記)の名で建設された。トラヤヌス治下の101年から106年に、デケバルス王のダキアもろともローマ人に征服された。
ポタイッサの名は、1758年に郊外のアイトンで発掘されたマイルストーンからもみえる[3]。これはダキア征服直後の108年のもので、ポタイッサからナポカに至る街道がトラヤヌスの命で建設されたことを示している。ポタイッサおよびナポカの存在が確認できる、ダキア属州最古の碑である。
同名のカストルムも建設され、ムニキピウム、さらにコロニアに発展した。166年から274年まで、第5軍団マケドニカのベースキャンプが置かれた。
ポタイッサの塩鉱は、先史時代から採掘が行われてきた。
中世
ハンガリーの征服後、1075年に初めてトゥルダ岩塩坑(サリーナ・トゥルダ)の記録がみえる。これは1932年に閉山したが、近年観光用に再び公開された。
11世紀にサクソン人がこの地方に入植した。1241年から翌年にはタタール人が来寇し、市街は壊滅した。アンドラーシュ3世はこの村落に特権を授け、後のラヨシュ1世がこれを裁可した[要出典]。
1467年、マーチャーシュ1世がこの地でハンガリー議会を開いた。16世紀になると、トランシルヴァニア議会がしばしば開かれるようになり、1558年にはカトリック教会とルーテル派の信仰の自由が宣言された。議会は1563年にカルヴァン派も認め、1568年には「いかなる場合も、彼の宗教に対して監禁・束縛の脅迫を与えることは許されない」として対象をすべての宗教に拡大した。中世ヨーロッパでこのような自由が認められることは異例であった。この「トゥルダ勅令」は、全面的な信教の自由を保障したキリスト教ヨーロッパで初めてのケースであった(しかし、その法的効力には限界があった)。
1609年にはトランシルヴァニア公バートリ・ガーボルが新しく特権を与え、後のベトレン・ガーボルがこれを裁可した。1659年のトゥルダの戦いでは、オスマン帝国のアフメド・パシャがラーコーツィ・ジェルジ2世を打ち破った。
近代
1944年、この地でナチス・ドイツ=ハンガリー王国軍とソビエト連邦=ルーマニア王国軍が戦火を交えた(トゥルダの戦い)。これは、第二次世界大戦中のトランシルヴァニアにおける最大の戦闘であった。
- ^ “Population as of July 1, 2007” (Romanian). INSSE (2008年4月4日). 2008年5月4日閲覧。
- ^ Patrouissa by Ptolemy Geographia III, 8, 4, miscopied from a *Pataouissa
- ^ Lazarovici et. al. 1997, pp. 202–3 (6.2 Cluj in the Old and Ancient Epochs)
- ^ http://www.edrc.ro/recensamant.jsp?regiune_id=2140&judet_id=2295&localitate_id=2300
- ^ 『地球の歩き方 2017〜18 ブルガリア/ルーマニア』ダイヤモンド・ビッグ社、2017年、254頁。ISBN 978-4-478-06019-3。
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