ソマリランドの戦い 損害

ソマリランドの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/17 09:24 UTC 版)

損害

イタリア側の損害報告は205名の戦死者とのみ記録されているが[22]、イギリス側は2052名の負傷者を更に計上している[23]。基本的には短期攻勢に訴えかけたAOI軍の方が、より多くの戦傷者を出した事は間違いない。しかし短期攻勢はイギリス軍による増派を防いだ点で勝利の要因となった。

損害の正確な計算を難しくしているのは、当時のソマリランドが英国の完全な支配統制下になく、英軍・伊軍のどちらにもつかない反乱部族が各地に点在していたためでもある[4][nb 5]。彼らは時に応じて伊軍に協力したり、英軍に協力したり、相互に争い合ったりと不安定な対外行動を見せたので、両軍共にどちらの兵士なのか判断は難しかった。

結果

ソマリランドの戦いは以下の結果と教訓をもたらした:

  • ソマリランドの戦いがイタリア王国軍が第二次世界大戦で独力によって獲得した唯一の戦略的勝利であること
  • ソマリランドでの敗北がイギリス王国にとって、最初の自国領土における戦略的敗北であること
  • イタリア王国軍が優れた支隊運用の指揮能力を持つこと(3つのルートを進む支隊はそれぞれ殆ど相互連絡無しに共同攻撃を成功させた)
  • イギリス王国軍が(ダンケルクでも見せた)優れた兵力撤収と、高い錬度から敗走中でも高い規律を持つこと
  • 空軍の重要性の再確認[24]
  • イタリア領東アフリカの拡大と、ムッソリーニの政治的威信の増加

ソマリランドでの敗北はイギリスにとって自国領における初めての戦略的敗北であり、ウィンストン・チャーチル英首相はウェーベル大将を激しく叱責している。そして実際にソマリランドの失陥は、援軍派遣の判断が遅かった英中東軍司令部とウェーベル大将に責任があったことも事実であった。また、それほど大きな損害をこうむっていないにもかかわらず、アラガン砂漠から敗走することを許したのは明らかな駐屯軍と司令部の怠慢であるとも批判し、前線逃亡の疑いで軍法会議を行うべきとまで発言している。これに対してウェーベルは、表面的な状況だけを見てあの時点でアラガン砂漠を維持できたと考えるのは不適当だと反論した。彼は「肉屋の屠殺が兵士に強いるべくことと考えるべきではありません」と、チャーチルの精神論を批判している。チャーチルとウェーベルの確執はこの時から始まり、最終的にはウェーベル解任に至ることとなる[25][26]

『タイム』誌はソマリランド陥落を書き立てた記事で「ソマリランドの敗北による最大の被害は、植民地(特にアラブ)におけるイギリスの威信を失わせたことかもしれない」と指摘した[27]

イタリア側にとってソマリランドの勝利は、同盟軍としての参戦などではない単独での戦いで、唯一獲得された戦略的勝利であった。そしてソマリランドの勝利はフランス戦でのドイツの圧勝を除く、その後に続いた枢軸軍の戦略的勝利(日本軍の太平洋における作戦、ドイツによる独ソ戦)と全く同じ流れをとった。つまり勝利で始まり、敗北で終わるという結末である。徐々に増援を続けた英東アフリカ軍は次第にAOI軍を圧迫し、逆にAOI軍は海路と陸路を封鎖された状態でますます困窮していった。そして1941年半ばにエチオピア奪還をもって、東アフリカ戦線は終結する。

しかし完全に戦いが終わった訳ではなく、英軍はその後もイタリア王国本国が戦争から脱落する1943年までAOI軍残党によるテロ行為に悩まされることになる[24]

脚注

注釈
出典

  1. ^ 恐らく戦死・投降したが、消息が確認できなかったケースも含まれる[1]
  2. ^ Lieutenant-General Luigi Frusci, commander of the Italian East Africa Northern Sector, wrote in his memoirs that the Somalis fighting as "armed Bands" on the Italian side suffered two thousand casualties. He stated that the most popular local tribal chief of British Somaliland greeted the Italians after the conquest of Zeila and offered him his men against the British.[3]
  3. ^ Unofficially, De Simone estimated that nearly one thousand irregular Somalis fighting against the Italian invasion were casualties during the campaign. These armed men operated as local "Bande", with only minimal control from British officers (like Brigadier Chater).[4]
  4. ^ 既にフランスは降伏していたが、自由フランス軍がアフリカの植民地などで枢軸軍への抵抗を呼びかけていた。当時の仏領ソマリランドは自由フランス軍への対応を決めかねている状態にあった。[13]
  5. ^ The photo of this tribal chief can be seen by following this link. His picture is in the third row from the bottom next to the photo of General Frusci.
  1. ^ a b c Wavell, p. 2725.
  2. ^ a b Stone, Bill (1998年). “The Invasion of British Somaliland. The Aftermath”. Stone & Stone Second World War Books. 2008年6月8日閲覧。
  3. ^ Maravigna (1949), p. 453.
  4. ^ a b Rovighi (1952), p. 188
  5. ^ a b c d e f Playfair (1954), p. 174
  6. ^ a b Mackenzie (1951), p. 23
  7. ^ a b Playfair (1954), p. 172
  8. ^ a b c d Playfair (1954), p. 173
  9. ^ Mockler (1984), pp. 243-45.
  10. ^ a b Mackenzie (1951), p. 22
  11. ^ Original Video of the Italian conquest of British Somaliland (in Italian)
  12. ^ Del Boca (1986), p. 74
  13. ^ Playfair (1954), pp. 167–168
  14. ^ a b Playfair (1954), p. 175
  15. ^ a b c Playfair (1954), p. 176
  16. ^ a b c Playfair (1954), p. 177
  17. ^ The Abyssinian Campaigns, p. 19.
  18. ^ a b c d Wavell, p. 2724.
  19. ^ Playfair (1954), p. 178
  20. ^ Rovighi (1952), p. 138
  21. ^ Mockler (1984), pp. 245–49.
  22. ^ Rovighi (1952), p. 49
  23. ^ Playfair (1954), pp. 178–179
  24. ^ a b Antonicelli (1961), [要ページ番号]
  25. ^ Mockler (1984), p. 251.
  26. ^ Jackson, Ashley (2006). The British Empire and the Second World War. London: Hambledon Continuum. p. 211. ISBN 978-1-85285-517-8 
  27. ^ Little Dunkirk





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