ジェシー・ワシントンリンチ事件 ジェシー・ワシントンリンチ事件の概要

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ジェシー・ワシントンリンチ事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/20 07:23 UTC 版)

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概要

ワシントンはテキサス州ロビンソン英語版の農村部において、彼の白人雇用主の妻、ルーシー・フライヤー(Lucy Fryer)をレイプし殺害したとして有罪判決を受けた。彼は郡裁判所(county court)から傍聴者たちによって引きずり出され、ウェーコの市庁舎前でリンチにかけられた。市の役人と警官を含む10,000人以上の観衆が集まりこれを見ていた。殺人を見物に来た白人たちの間にはお祭りのような雰囲気があり、昼食時には多くの子供たちが参加した。群衆の一群はワシントンの性器を切り取り、指を切断し、そして彼を火あぶりにした。ワシントンは2時間にわたり繰り返し火の中に上げ下ろしされた。鎮火後、彼の胴体は街中を引き回され、焼け焦げた体の一部は土産物として販売された。このリンチがエスカレートする様を職業カメラマンが撮影し、リンチ事件の経過の貴重な写真を残している。この時撮影された写真は印刷され、ポストカードとしてウェーコで販売された。

このリンチはウェーコの住民の多くから支持されていたが、アメリカ中の新聞から非難を浴びた。全米黒人地位向上協会(NAACP)はエリザベス・フリーマンを調査のために雇った。多くの住民がこの出来事について語ることを躊躇したものの、彼女はウェーコで詳細な調査を行った。フリーマンの報告書を受け取った後、NAACPの共同設立者かつ編集者であったW・E・B・デュボイスは、この悲劇の中で焼かれたワシントンの写真を特集した綿密な報告書をThe Crisis英語版(NAACPの機関紙)上で公表し、NAACPは反リンチ運動英語版の中で彼の死を大きく取り上げた。ウェーコは現代的かつ進歩的な都市であると考えられていたが、このリンチはその白人住民が人種的暴力英語版を許容していることを証明した。ワシントンへの残虐な拷問と殺人は「ウェーコの恐怖(Waco Horror)」として知られており、この都市は人種差別的であるという評判が広まった。

歴史家はジェシーの死は後のリンチに対する見方を変える一助になったとしている。広範な否定的広報がリンチの慣習に対する公衆の支持を抑制した。1990年代と2000年代、一部のウェーコ住民がワシントンのリンチのモニュメントを建てるロビー活動を行ったが、ウェーコ市で幅広い支持は集まらなかった。リンチ事件100周年の2016年5月、ウェーコ市長はワシントンの親族とアフリカ系アメリカ人コミュニティーに謝罪する公式なセレモニーを行った。この事件を追悼する歴史的記念碑が設置されている。

背景

川岸にいるウェーコ住民の一団を描いた1911年のポストカード。この都市が牧歌的な土地柄を自らの在り様として指向していたことを反映し、フランスの画家ジョルジュ・スーラの「グランド・ジャット島の日曜日の午後」をモデルにしている。

19世末から20世紀初頭には数千件のリンチアメリカ合衆国南部で発生した。主にフロリダ州ジョージア州ミシシッピ州、そしてテキサス州に住むアフリカ系アメリカ人が標的になった。1890年から1920年の間に、約3,000人のアフリカ系アメリカ人が犯罪加害者であるとされ、リンチに参加した群衆によって殺害された。これらは法律の枠外で行われ、容疑者は刑務所や法廷から連れさられるか、逮捕される前に殺害された。リンチの支持者たちはこの慣行はアフリカ系アメリカ人の犯罪性のためであるとし、彼らに対する優位を主張する手段として正当化した[1]。リンチはまた移り行く人口構成と権力構造を持つ文化において白人の連帯感を醸成した[2]。南部社会の多くにおいてリンチは容認されていたが、複数の宗教指導者と全米黒人地位向上協会(NAACP)がこの行為への反対者として登場した[1]

1916年当時、ウェーコは30,000人以上の人口を持つ繁栄した都市であった。19世紀には犯罪と結びつくようになったが、コミュニティーの指導者たちはこの評判を変えようとしており、牧歌的な土地柄であることを宣伝する代表団を全米に送っていた。1910年代までにウェーコの経済は強化され、この都市は敬虔だという評判を得ていた[3]。黒人中流階級が二つの黒人大学とともにこの地域に出現した[4]。1910年代半ば、黒人はウェーコの人口の約20パーセントを占めていた[5]。ジャーナリストのパトリシア・バーンスタイン(Patricia Bernstein)はリンチの研究において2006年に、この都市は平和と体面の「薄いベニヤ(thin veneer)」を持っていると描写している[6]。ウェーコには人種的緊張があり、地元の新聞は往々にしてアフリカ系アメリカ人が犯した犯罪を強調した。1905年には黒人のサンク・メジャース(Sank Majors)がリンチされ、ウェーコのダウンタウン近郊で橋に吊るされていた[4]ベイラー大学の学長を含む少数の反リンチ運動家がこの地域に暮らしていた[7]。1916年には複数の要因によって現地の人種差別が盛り上がった。この要因には白人至上主義を助長し、クー・クラックス・クランを賛美した映画『國民の創生』の上映や、テキサス州テンプルで直近に発生したリンチの標的となった黒人男性の写真の販売などがある[4]


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