ジェシー・ワシントンリンチ事件 公判とリンチ

ジェシー・ワシントンリンチ事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/20 07:23 UTC 版)

公判とリンチ

ワシントンのリンチを準備する群衆
吊るされているワシントンの体
灰の中で焼け焦げたジェシー・ワシントンの死体
酷く焼け焦げたワシントンが木に吊るされている

5月15日、公判への期待の中で、ウェーコの裁判所はすぐに満員となった。群衆によって陪審員の入場に困難をきたす程であった。見物人も裁判所周りの歩道を埋め尽くし、2,000人以上の観客が集まっていた[21]。参加者はほとんど全員が白人であったが、ウェーコの黒人コミュニティーからも僅かな人数がひっそりと参加していた。ワシントンが法廷に入場した時、傍聴者の1人が銃を彼に向けたが、迅速に制圧された[22]。公判が開始すると、裁判官リチャード・アービー・モンロー(Richard Irby Munroe)は秩序を維持するための試みとして、傍聴者に静粛にするよう要求した。陪審員の選考は速やかに進み、弁護団は検察の選択に挑戦はしなかった[22]。バーンスタインはこの公判は吊るし上げの雰囲気があったと述べている[23]。裁判官モンローはワシントンに抗弁(plea)を求め、可能性のある判決を説明した。ワシントンは恐らく「はい(Yes)」と呟いた。裁判所はこれを有罪を認めたと解釈した。

検察が罪状について述べ、裁判所は法執行官(law enforcement officers)とフライヤー夫人の遺体を診た医師から聴取を行った。この医師はフライヤー夫人の死因について論じたが、レイプには言及しなかった。検察は休憩に入り、ワシントンの代理人は彼に犯行に及んだかどうかを尋ねた。ワシントンは「私がやったことです(That's what I doneママ〕)」と答え静かに謝罪した。首席検事(The lead prosecutor)は法廷に呼びかけ、公判は公正に行われていると宣言し、群衆に拍手を求めた。陪審は審理に送られた[22]

4分の審理の後、陪審員長は有罪判決と死刑宣告を発表した[24]。この公判は約1時間で終わった[25]。裁判官はワシントンの退廷に付き添うために彼に近づいたが、ワシントンに群がる群衆の波にはじき出され、群衆はワシントンを捕らえて外へ引っ張り出した[24]。ワシントンははじめ抵抗し1人の男にかみついたが、直後に殴られた[26]。彼の首に鎖が巻かれ、膨れ上がる暴徒によって市役所へ向けて引きずられた。ダウンタウンの通りで彼は裸にされ、突き刺され、鈍器で繰り返し殴られた。彼が市役所に連れてこられた時には、建物正面にある木の横に焚火のための薪が用意されていた[24]。血まみれで意識朦朧としたワシントンに油がかけられ、鎖で木に吊り下げられて地面に降ろされた[27]。群衆の一部が彼の指、つま先、性器を切断した[24]。火がつけられ、ワシントンは焼死するまで繰り返し炎の中に上げ下ろしされた。ドイツの学者マンフレート・ベルク英語版は処刑者たちが彼をすぐに絶命させず長く苦しませることを試みたと断言する[28]。ワシントンは鎖をよじ登ろうとしたが、指が切断されていたため不可能であった[29]。火は2時間ほどで消え、観衆にワシントンの骨や鎖などを記念に集めることが許可された[24]。参加者の1人がワシントンの性器を保持し[30]、子供たちのグループがワシントンの頭から歯を抜き取って土産物として販売した。火が消えるまでに、ワシントンの腕と足は胴体から焼け落ち、頭は焼け焦げていた。彼の体は木から外され、馬に繋がれて街中を引き回された。ワシントンのバラバラの遺体はロビンソンに運ばれ、その日の遅くに警察官が遺体を確保して埋葬するまで公に展示された[24]

テキサス州ではリンチは違法であったが、ジョン・ドリンズ(John Dollins)市長、ウェーコの警察長官ガイ・マクナマラ(Guy MacNamara)を含む10,000人と推定される群衆によってこのリンチの光景を作り出された[31]。フレミング保安官は彼の代理人にリンチを静止しないように言い、事件の後に誰かが逮捕されることはなかった[32]。バーンスタインはフレミングがその年の再選のために犯罪を厳しく取り扱っているとみなされたかったのではないかと推測している[33]。ジョン・ドリンズ市長は政治的利益のために群衆を煽った可能性がある[34]。ピーク時には群衆は15,000人に達した[35] 。電話の普及によって、住民たちはかつてよりも素早くリンチについて知人たちに連絡して多数の観衆を集めることが可能になっていた[36]。地元メディアはワシントンが焼かれた際に「歓喜の叫び(shouts of delight)」が聞こえたと報じたが、一部の参加者がこれを支持しなかったとも伝えた[37]Waco Semi-Weekly Tribune紙は数多くのウェーコの黒人住民が立ち会ったとしているが、バージニア大学の歴史学者グレース・ヘイル(Grace Hale)はそれは疑わしいと主張している[38]。恐らく農村部の住民であるフライヤー一家とは繋がりがないウェーコの住民が参加者の大半を構成していた[34]。何人かの農村住民がリンチの前に公判の証人としてウェーコを訪れた[39]。リンチが正午に行われたので、地元の学校の子供たちは歩いてダウンタウンへ見物に訪れ、何人かは見やすい場所を得るため木に登った[40]。多くの親たちが子供たちの参加を認め、リンチが白人至上主義の信念を強化することを望んだ[41]。テキサス人の一部はリンチへの参加を若い男性の通過儀礼として見ていた[42]


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