シュフラン級重巡洋艦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/05 17:30 UTC 版)
機関
防御重量をねん出するため機関重量を軽量化すべくボイラー数を前級の2/3になる9基から6基へと減少させ、タービン数も4基から3基へと1基が減少させた点が異なる。[6]機関の形式は、主缶にギョ・ド・タンプル式型重油専焼缶のままで9基を搭載、主機関にはラトー・ブルターニュ式ギヤードタービンを3基3軸推進で最大出力90,000馬力、速力31ノットと前級の33ノットから2ノット低下した。缶室・機関分離配置は前述のとおりシフト配置のままである。
航続性能は重油1,700トンで15ノットで4,600海里走ることが出来た。なお、シュフランとコルベールは舷側防御に石炭庫を使用したため主機関とは別に石炭専焼缶を2基追加し、石炭を焚いた状態で巡航時に11ノットで2,000海里の航続性能が得られた。[7]デュプレクスとフォッシュは石炭庫を廃止した代わりに重油タンクは2,600トンへと増加したため航続性能は15ノットで5,300海里へと改善された。[8]
防御
本級は前述の機関重量の軽量化により、シュフランで951トン、コルベールとフォッシュが1,374トン、デュプレクスで1,533トンの防御重量を稼いだ。[1]これにより弾火薬庫や舵機室のみ防御する「ボックス・シタデル」方式からシュフラン級は脱却した。
弾薬庫は側面部に50mm装甲を貼り、天蓋に20mm装甲を別個に貼っていた。舷側装甲はシュフランで50mmであったがコルベールから54mm~60mmへと増加された。砲塔と司令塔は前級と同じく30mm装甲である。甲板装甲は最上甲板に25mm、主甲板に断片防御用の12mm装甲を貼った。[2]
機関区にはフランス軍艦伝統の対応防御方式を強化して、機関区画への縦隔壁と細分化された水密区画により水線下触雷時の浸水被害の局限化を図っていた。[9]舷側外板と機関区のあいだに重油タンクを設けて対水雷防御としていたが、「シュフラン」と「コルベール」のみ石炭庫を重油タンクの裏に設けて二段構えとなっており、機関部の防御は同世代の列強の重巡洋艦の中では最良となっていた。[7]
同型艦
- ブレスト海軍造船所で1926年4月17日に起工、1927年5月3日に進水、1930年1月1日に就役。1940年にアレキサンドラで連合軍に鹵獲後の1943年5月に自由フランス海軍に所属後の1944年まで南大西洋でドイツ海軍の封鎖突破戦の警備活動に就き、その後はカサブランカで整備を受けている途中で終戦を迎えた。同大戦後の1947年までインドシナ方面への兵員輸送任務に就き、同年10月に予備役に編入した。1962年12月に除籍後、「オセアン」と改名後にトゥーロンで宿泊艦となり1974年に解体処分。
- ブレスト海軍造船所で1927年6月12日に起工、1928年4月20日に進水、1931年3月4日に就役後は地中海艦隊に所属。1942年11月27日にトゥーロンで自沈処分後の12月7日に喪失とされた。
- ブレスト海軍造船所で1928年6月21日に起工、1929年4月24日に進水、1931年9月15日に就役後は地中海艦隊に所属。1942年11月27日にトゥーロンで自沈処分。1943年4月にイタリア軍により浮揚後、連合軍の空襲により沈没。その後解体処分。
- ブレスト海軍造船所で1929年11月14日に起工、1930年10月9日に進水、1932年7月20日に就役後は地中海艦隊に所属。1942年11月27日にトゥーロンで自沈処分。1943年7月にイタリア軍により浮揚後、連合軍の空襲により沈没。その後解体処分。
固有名詞の分類
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