キリスト教の歴史 近代以降

キリスト教の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/27 04:41 UTC 版)

近代以降

北アメリカ

北アメリカでは、西ヨーロッパで弾圧を受けた非国教諸派が多数移民して自治共同体を設立し、アメリカ合衆国の成立において国教制度の否定と信教の自由を根幹とする「政教分離原則」を確立した。

リバイバル 

カルヴィニストとウェスレアンのリバイバルは、第一次大覚醒と呼ばれ、北米で福音的な組合教会、長老派教会、バプテスト、そして新しいメソジスト教会の発展を見た。この働きが衰えた時、その反対者からキリスト教系の新宗教異端の運動が現れた。[10]

大覚醒 

ニューイングランドでは、非国教諸派を横断するかたちで、回心運動である大覚醒Great Awakening)あるいは信仰復興Revival)が起こった。1730年頃-1740年第一次大覚醒は、アメリカ植民地における、プロテスタント最初の情熱的な大覚醒の波であり、伝統的な改革派の敬虔、礼拝、罪の個人的な深い自覚と、イエス・キリストによる贖いを強調した。歴史家のAhlstrom はそれを、「偉大な国際的なプロテスタントの大変革」、ドイツの敬虔主義、イングランドのメソジストの福音的リバイバルの一部としてとらえた。それは既存のキリスト教会の会員の霊性をリバイブさせた。また会衆派教会、オランダ改革派教会、ドイツ改革派教会、バプテスト、メソジストに影響を与えた。これにより、宗教体験を最重要視し、聖書を神のことばとして受け取り、啓蒙思想の理性と学問を軽視する傾向が、キリスト教諸教派に共通して見られた。しかし、大覚醒運動の指導者ジョナサン・エドワーズは神学を軽視せず、知性の領域でこの信仰体験を擁護した。敬虔主義は神学的には17世紀のプロテスタント正統主義と結びついた[11]。個人の宗教体験が最重要視されたことから、プラグマティズムの母体となるニューイングランド経験主義や、ウィリアム・ジェイムズの『宗教的経験の諸相』に代表される宗教学が誕生した。大覚醒がイギリスに波及した結果、メソジスト派が生まれた。

また1800年代から第二次大覚醒が起こり、これを契機としてメソジスト教会からホーリネス運動やフリーメソジスト教会が誕生した。長老派ではカンバーランド長老教会が形成されたり、長老派から分離する形でディサイプルス教会が結成されたりした。第二次大覚醒(1800年-1830年代)は、第一次大覚醒より、教会の外の人に焦点をあて、個人的な深い救いの経験を強調し、リバイバル・ミーティングが開かれた。

1857年から始まった第三次大覚醒は、英語圏を中心に世界中に広まったことで特に最も知られている。合衆国中西部から南部では、野外のテントの集会で「聖霊のバプテスマ」や「神癒」の体験を得ようとするキャンプミーティングが数千ヶ所で開催され、熱狂的な礼拝やゴスペルソングの歌唱などが行われて、黒人教会の霊性(スピリチュアリティ)に対して決定的な影響を与えた。1904年には、異言を伴う聖霊のバプテスマを強調する信仰復興がロサンゼルスで始まり、北アメリカに急速に広まったのち、さらに、イギリスや北欧諸国にも及んで、新たにペンテコステ派が誕生した。このペンテコステ派はウェスレアンとホーリネス運動にルーツをもっている。ペンテコステ派は、カリスマ運動に受け継がれた。

西ヨーロッパ

遅れて近代化に着手したドイツとイタリアでは、近代化政策の過程でカトリック教会に厳しい締め付けが行われ、中世以来のカトリック教会の権益が大きく損なわれた。この危機の中でカトリック教会は保守色を強め、中世から近世にかけて議論の的となっていたいくつかの教義を、公式の教義として布告するに至る。また近代思想や進化論などの近代科学に対する敵対をあらわにし、教義に反するとされた書物を読むことを信者に禁じるため、たびたび禁書目録を発行した。 1864年に教皇ピウス9世は近代思想の中に生まれた啓蒙主義自由主義共産主義を排斥するため「誤謬表」(Syllabus Errorum、シラバス・エロラム)を回勅とともに公布した。1860年に国家統一を果たしたイタリアでは、国土中央部に広がっていた教皇領がローマ市周辺にまで狭められてしまう。このため、ピウス9世はイタリア国王と閣僚を破門した。1869年から1870年にかけて開催された第1バチカン公会議では教皇首位説教皇不可謬説を公式教義として布告した。教皇権の強化に対して、カトリック教会内部のリベラル派から強い反発が起こり、同調できなかった司教区や教会は、カトリック教会から離脱するに至った(復古カトリック教会)。

しかし、19世紀後半から、英語圏諸国でカトリック信徒に対する政治的差別条項が順次廃止され、また、アイルランド大飢饉が原因でカトリック信徒のアイルランド人が世界各地、特に北アメリカに大量に移民したことにより、カトリック教会の教勢は拡大に転じた。

近代の正教会

この項の主要参考文献:[7]

1782年、ギリシアで聖歌集『フィロカリア』が出版された。アトス山の修道士ニコディム・アギオリトとコリント主教マカリーの編纂したこの聖歌集は、神秘思想である静寂主義に基づく神への賛美集であり、かつ正教会に伝わる数々の著述を編纂した精神的遺産の継承である。タイトルはギリシア語で「美を愛する」を意味し、ここでいう美とは神のことである。これは各国の言語に訳され、全正教会に広まり、停滞していた教会内で信仰の再興につながった。『フィロカリア』は現在でも正教会が共有する精神財として、世界各地の正教会で使われている(日本語への抄訳あり。また2006年より逐次全訳の刊行が行われている)。

フランス革命後のヨーロッパでの民族主義の高揚は、正教世界にもおよび、19世紀半ばからヨーロッパのオスマン帝国領内では独立運動が相次いだ。これは教会においては、オスマン帝国の統制下にあるコンスタンティノポリス教会の干渉を受けない、独立教会を志向する動きを生んだ。1833年ギリシャ正教会が独立教会を宣言したのにつづき(コンスタンティノポリスは1850年に承認)、セルビア正教会(1879年)、ルーマニア正教会(1885年)、ブルガリア正教会(1860年)が独立教会となった。

また19世紀半ばにはロシア正教会内に東方伝道への積極的な取り組みが生まれた。ロシア領となったシベリアアラスカでの伝道が積極的になされた。シベリア中部の都市イルクーツクには大主教座と神学校がおかれ、シベリアにおける活動の拠点となった。イルクーツク近郊出身の神父イヴァン・ベニアミノフは、アリューシャン列島に妻とともに伝道した。ベニアミノフは文章語としてのアリュート語を確立した人物として知られている。伝道のため、文字をもたなかったアリュート語の正書法を確立し、はじめての文法書を出版し、アリュート人の協力者とともに聖書をはじめとする宗教文書を翻訳した。日本にも、19世紀半ばの開国後、はじめ在函館ロシア領事館付司祭として来日したニコライ・カサートキン司祭(のち大主教)により、日本ハリストス正教会が建てられた。

現代




  1. ^ 新聖書辞典
  2. ^ 尾山令仁『聖書の概説』
  3. ^ 『現代カトリック事典』
  4. ^ 後にキリスト教では宗派ごとに外典の範囲が何度も見直されている。詳細は外典を参照。
  5. ^ a b 高橋保行『ギリシャ正教』講談社学術文庫 1980年 ISBN 978-4-06-158500-3 (4061585002)
  6. ^ a b 高橋保行『東方の光と影』春秋社 (1991-05-30出版)ISBN 978-4-393-26103-3 (4393261038)
  7. ^ a b オリヴィエ・クレマン(訳:冷牟田修二)『東方正教会』白水社 文庫クセジュ ISBN 978-4-560-05607-3 (4560056072)
  8. ^ 川又一英『イヴァン雷帝 -ロシアという謎-』新潮選書、1999年5月30日(161頁~166頁) ISBN 4106005662
  9. ^ 高橋保行『ギリシャ正教』110頁 - 117頁、講談社学術文庫 1980年 ISBN 978-4-06-158500-3 (4061585002)
  10. ^ メンデル・テイラー『伝道の歴史的探求』
  11. ^ 宇田進『福音主義キリスト教と福音派』


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