キャプシーヌ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/11 13:58 UTC 版)
備考
- ファッションモデルをしていたキャプシーヌをハリウッドにスカウトしたのは、プロデューサーのチャールズ・フェルドマン(1904-1968)であった。『わが恋は終りぬ』で共演したダーク・ボガードをイギリスから呼んだのはフェルドマンで、これはキャプシーヌがハリウッドの男優と共演するのをフェルドマンが嫌ったことが一因とされる。しかし、結果的にはキャプシーヌとボガードは交際する事態となったため、ボガードはフェルドマンにより、次の映画でエヴァ・ガードナーと共演するためにローマに遠ざけられてしまった。キャプシーヌは、ボガードが「結婚することを望んだ唯一の女性」であったが、フェルドマンの方に好意を持っていたといわれる。なお、キャプシーヌが1962年からスイスのローザンヌで居住していた高級アパートメントは、フェルドマンがキャプシーヌのために購入したものであった[3]。オードリー・ヘプバーンの友人(女性)がこのアパートメントに住んでいた頃に、ウィリアム・ホールデンがキャプシーヌを訪ねてきた際、エレベーターの中で何度か遭遇している[4]。ダーク・ボガードは、このアパートメントに一度も行ったことがないと書いている[5]。
- キャプシーヌがハリウッド行きを決めて、ビバリーヒルズにあったチャールズ・フェルドマン宅に住むことになったときに、フェルドマン夫人は(離婚はしないけれども)荷物をまとめてニューヨークに移ったため、キャプシーヌがフェルドマン宅の女主人となり、ハリウッドの社交に関してフェルドマンの役に立っていたという[5]。
- キャプシーヌが1960年の『アラスカ魂』(North to Alaska)でジョン・ウェインと共演できたのは、フェルドマンがジョン・ウェインのエージェントもしていたためである。
- キャプシーヌは、自分が1931年(又は1933年)生まれであると自称することがあったため、そのように記載されることもあるが、1928年が正しい。すなわち、最初にハリウッド映画に出演した『わが恋は終りぬ』(Song Without End)及び『アラスカ魂』(North to Alaska)が公開された1960年当時、既に32歳であった。
- ウィリアム・ホールデンが交際した女優でホールデンが遺言により遺贈を行ったのは3名で、ステファニー・パワーズ($250,000)、キャプシーヌ($50,000)、及び Patricia Stauffer($50,000) であった[6]。
- オードリー・ヘプバーンが1965年に自宅を購入したスイスのトロシュナ村は、キャプシーヌが1962年から住んでいたローザンヌからは20km程度の距離である。キャプシーヌは、1970年代の終わりから1980年代に、週に2回はヘプバーン宅に遊びに行っていたといわれている[4]。
- キャプシーヌは、1988年から西ドイツのテレビで放送された「Blaues Blut」のシリーズにアルテンベルク伯爵夫人役で出演し、1990年1月15日から3月19日にかけての放送が遺作となった。このシリーズは英語で制作されたが、西ドイツでの放送であるため、ドイツ語に吹き替えて放送された。ちなみに演じた伯爵夫人の名前は「シモーヌ」で、『ピンクの豹』(1963)の『クルーゾー警部』と離婚し、1年後にリットン卿の夫人となった女性、シモーヌと同じ名前であった。
- マテル社から発売された、バービー人形「スーパーモデルシリーズ」のCapucineは、キャプシーヌへのオマージュとして作られたものである。
- ^ Donnelley, Paul (2005-11-01). Fade to Black: A Book of Movie Obituaries (3 ed.). Omnibus Press. pp. 236. ISBN 1-84449-430-6
- ^ “FRENCH ACTRESS, CAPUCINE, LEAPS TO HER DEATH”. DESERT NEWS. (1990年3月20日) 2012年10月22日閲覧。
- ^ Morley, Sheridan,「Dirk Bogarde: Rank Outsider」, 1996
- ^ a b Paris, Barry,「Audrey Hepburn」, 2001
- ^ a b Bogarde, Dirk, 「Cleared for Take-off」, 1995
- ^ Capua, Michelangelo,「William Holden: A Biography」, 2009
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