カタリーナ・コルナーロ カタリーナ・コルナーロの概要

カタリーナ・コルナーロ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/10 23:15 UTC 版)

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カタリーナ・コルナーロ
Caterina Cornaro
キプロス女王
ティツィアーノ・ヴェチェッリオが1542年に描いたカタリーナの肖像画。ウフィツィ美術館所蔵。
在位 1474年8月26日 - 1489年2月26日[1]

キプロス王妃
在位 1468年6月10日 - 1473年6月11日

出生 1454年11月25日
ヴェネツィア共和国ヴェネツィア
死去 (1510-07-10) 1510年7月10日(55歳没)
ヴェネツィア共和国ヴェネツィア
埋葬 ヴェネツィア共和国ヴェネツィア、サン・サルヴァドール教会
配偶者 ジャック2世
子女 ジャック3世
王朝 リュジニャン朝
父親 マルコ・コルナーロ
母親 フィオレンツァ・クリスポ
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家族

カタリーナは神聖ローマ帝国の騎士階級でヴェネツィア貴族のマルコ・コルナーロとフィオレンツァ・クリスポの娘として、1454年11月25日にヴェネツィア共和国で生まれた。父マルコはおそらく、1365年から1368年までヴェネツィアのドージェを務めたマルコ・コルナーロ (en:Marco Cornaro) の孫である[3]。コルナーロ家はヴェネツィアの元首であるドージェを4名輩出した名門貴族で、カタリーナの兄ジョルジョ・コルナーロ (en:Giorgio Cornaro) も要職に就いている。コルナーロ家とキプロスは通商や交易を通じて、長年にわたって深いつながりがあった。

カタリーナの母フィオレンツァは、シロス島の領主ニコラス・クリスポ (en:Nicholas Crispo, Lord of Syros) の娘である。ニコラスは少なくとも二度結婚しており、フィオレンツァの母親がどちらなのかははっきりとしていない。ニコラス自身の書簡によると、ニコラスはレスボス島の領主ジャコポ・ガッティルシオの義理の息子となっている[4]。1574年のカテリーノ・ゾノの記録には、ニコラスの妻としてエウドキア=ヴァレンツァ・トレビゾンドの名前が記載されており、エウドキア=ヴァレンツァはトレビゾンド皇帝ヨハネス4世の娘だとされている。しかしながら年齢や結婚時期などからすると、エウドキア=ヴァレンツァはヨハネス4世の娘ではなく妹である可能性が高く、この場合エウドキア=ヴァレンツァの両親は先代のトレビゾンド皇帝アレクシオス4世と皇妃テオドーラということになる[5]

ニコラス・クリスポの父はナクソス公国の君主フランチェスコ1世・クリスポ (en:Francesco I Crispo) で、ニコラスの母はナクソス公国の前君主サヌード家の一員フロレンス・サヌードだった[6]。フロレンスは、1341年から1376年までミロス島領主だったマルコ・サヌードの娘である。マルコ・サヌードは1303年から1323年までナクソス公国の君主だったグッリェルモ1世・サヌード (en:William I Sanudo) の末子だった[7]

結婚と王位継承

19世紀の画家ハンス・マカルトが描いた『カテリーナ・コルナロに敬意を表すヴェネツィア』。ウィーンのベルヴェデーレ宮殿所蔵。

1458年にキプロス王ジャン2世が死去すると、王位はジャック2世の異母妹で正嫡のシャルロットが継いだ。しかしながらジャン2世の庶子だったジャック2世がキプロス王位を求めてシャルロットと争い、シャルロットをローマへ追放して1464年にキプロス王位に就いた。政治的支援を必要としていたジャック2世は、キプロスと関係が深かったヴェネツィア共和国の名門貴族コルナーロ家の娘カタリーナを王妃に望んだ。ジャック2世からの申し込みはヴェネツィア側を非常に喜ばせ、ヴェネツィアとキプロスとの交易がいっそう盛んになり、キプロスでヴェネツィアに対する数々の特権が与えられるなどの効果となって表れた。当時のカタリーナは14歳であり、1468年7月30日にヴェネツィアで行われたジャック2世とカタリーナとの結婚式は代理結婚式だった。数年後にカタリーナはキプロス島へ渡り、正式にジャック2世と結婚生活を始めている。

正式な夫婦生活を始めて間もない1473年にジャック2世は突然発病し、7月に死去してしまう。当時ジャック2世の子を身篭っていたカタリーナは、ジャック2世の遺言に従ってキプロス王国の摂政となった。1473年8月に嫡子ジャック3世が生まれてキプロス王となったが、1歳の誕生日を迎える直前の1474年8月にジャック3世も死去してしまう。このジャック3世の死因についてはさまざまな疑惑が取り沙汰されている[8]

12世紀初頭の成立以来、250年余りを経たキプロス王国は衰退しており、1426年以来イスラム国家のマムルーク朝の属国のような立場に甘んじていた。ジャック3世の後を継いでキプロス女王となったカタリーナだったが、キプロスはヴェネツィアの商人たちが経済を握り、支配する国となっていった。そして1489年3月14日にカタリーナは退位し、キプロスの支配権を故国ヴェネツィアに譲渡することを余儀なくされた[9]

「2月14日に、黒いドレスをまとった女王は男爵や侍女らに付き添われつつ、馬に乗って王宮を離れた。6名の騎士が女王の騎馬の手綱をとっていた。王都ニコシアを去るときの女王の目には涙が溢れていた。すべての民草が女王との別れを惜しんで嘆き悲しんだ」[10]




  1. ^ CATERINA Corner, regina di Cipro”. 2018年4月23日閲覧。
  2. ^ Wills, Garry. Venice, Lion City (New York, Simon and Schuster, 2001), 136.
  3. ^ Profile of Marco Cornaro and his children” (2012年7月). 2011年12月16日閲覧。
  4. ^ Profile of Niccolò Crispo and his children” (2011年12月). 2013年9月25日閲覧。
  5. ^ Profile of Alexios IV and his children” (2011年12月). 2013年9月25日閲覧。
  6. ^ Profile of Francesco I and his children” (2011年12月). 2013年9月25日閲覧。
  7. ^ Profile of Marco and his descendants” (2011年12月). 2013年9月25日閲覧。
  8. ^ a b Churchill, Lady Randolph Spencer; Davenport, Cyril James Humphries (1900). The Anglo-Saxon Review. John Lane. pp. 215–22. http://books.google.com/books?id=wRIAAAAAYAAJ&pg=PA220 2013年3月13日閲覧。 
  9. ^ H. E. L. Mellersh; Neville Williams (May 1999). Chronology of world history. ABC-CLIO. p. 569. ISBN 978-1-57607-155-7. http://books.google.com/books?id=PCcOAQAAMAAJ 2011年3月13日閲覧。 
  10. ^ The chronicle of George Boustronios, 1456-1489
  11. ^ cornaroinstitute.org
  12. ^ Demetra Molyva, 'Palace of Cyprus’s last queen to be restored' in The Cyprus Weekly (Cyprus newspaper), 7 October 2011


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