ウィル・パワー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/01 07:25 UTC 版)
ウィル・パワー Will Power | |
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2021年 ロングビーチにて | |
基本情報 | |
国籍 | オーストラリア |
生年月日 | 1981年3月1日(43歳) |
出身地 | オーストラリア、クイーンズランド州トゥーンバ |
インディカー・シリーズでの経歴 | |
デビュー | 2008 |
所属 | チーム・ペンスキー |
車番 | 12 |
過去所属 | KVレーシング・テクノロジー |
出走回数 | 230 |
優勝回数 | 41 |
ポールポジション | 68 |
ファステストラップ | 0 |
シリーズ最高順位 | 1st (2014,2022) |
ウィル・パワー | |
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基本情報 | |
チャンプカー・ワールド・シリーズでの経歴 | |
活動時期 | 2005-2007 |
所属 | ウォーカー・レーシング |
出走回数 | 30 |
優勝回数 | 3 |
ポールポジション | 4 |
シリーズ最高順位 | 4th (2007) |
過去参加シリーズ | |
1999-2000 2000-01 2002 2002 2003-04 2005 2005/2006 |
クイーンズランド・フォーミュラ・フォード オーストラリアン・フォーミュラ・フォード・チャンピオンシップ オーストラリア・フォーミュラ3選手権 オーストラリアン・ドライバーズ・チャンピオンシップ イギリス・フォーミュラ3選手権 フォーミュラ・ルノー3.5 A1グランプリ |
選手権タイトル | |
2000 2002 |
クイーンズランド・フォーミュラ・フォード オーストラリアン・ドライバーズ・チャンピオンシップ |
受賞 | |
2006 | チャンプカー ルーキーオブザイヤー |
経歴
初期
2000年代に入ってからオーストラリア国内のレースに参加し始める。ウォリックのモーガン・パーク・レースウェイや、スタンソープのカーネル・レースウェイでダットサン1200をドライブした。15歳でプロとしてのキャリアを開始し、オーストラリアン・フォーミュラ・フォード・チャンピオンシップに参戦する。2002年にはオーストラリアン・ドライバーズ・チャンピオンシップ[1]で3度のポールポジション、7勝を挙げシリーズタイトルを獲得した[2]。
2003年にはイギリス・フォーミュラ3選手権に参戦、翌2004年には友人のウィル・デイヴィソンと共にイタリア・ミサノでミナルディのF1カーPS5をテストした[3]。
2005年はカーリン・モータースポーツからフォーミュラ・ルノー3.5に参戦する。ここで彼は結果を残し、高評価を得ることとなる。彼はシーズンで2勝を挙げ4度表彰台に立つ。また、5度フロントローを獲得した。彼はまた、A1チーム・オーストラリアに選ばれ2005年から2006年のA1グランプリに参戦、開幕戦のブランズ・ハッチで出走し、チームをブラジルに次いで2位に導いた。
チャンプカー
2005年後半にパワーは「チーム・オーストラリア」(ウォーカー・レーシングが母体)からチャンプカーに参戦、サーファーズ・パラダイスでのレックスマーク・インディ300に出走した。当時フォーミュラ・ルノー3.5のシリーズ途中であったが、そのままチャンプカーに転向し、フォーミュラ・ルノー3.5はシリーズ7位で終えることとなった[4]。このレースでのパワーの走りは力強く、チームメイトのアレックス・タグリアーニと接触しリタイアするまで快走した。サーファーズ・パラダイス戦の後、彼はチームと複数年契約を結び、次戦のメキシコシティでマーカス・マーシャルが「重大な契約違反」のため解雇されると、その代役として再び出走した。
2006年はチーム・オーストラリアからフル参戦し、シーズンを通して9度のトップ10フィニッシュ、予選での好結果を挙げた。シーズン最終戦のメキシコでは初の表彰台に上る。彼はルーキーオブザイヤーを獲得し[5]、シーズン6位という成績を達成した。
2008年にはチャンプカーがIRLと統合したことに伴いKVレーシング・テクノロジーに移籍。チャンプカー最後のレースとなったロングビーチ市街地コースを制し、チャンプカー最後の優勝者となった。残りのシーズンは同チームからインディカー・シリーズに参戦。
インディカー
2009年、ペンスキーに抜擢される。脱税事件の裁判により出場が危ぶまれていたエリオ・カストロネベスに代わるドライバーとしての契約で開幕戦を走ったが、カストロネベスが無罪となり復帰すると、控えドライバーに回り、スポット的な参戦にとどまったが、その中で1勝を記録した。
2010年はペンスキーからフル参戦となり、ロード/ストリートコースで圧倒的な強さを見せ、最終戦までランキングトップを走った。しかしオーバルコースでの成績があだとなり、ベテランダリオ・フランキッティに逆転を許してランキング2位となった。
2011年もペンスキーからフル参戦したパワーは、前年同様ロード/ストリートでの速さを生かしフランキッティと首位争いを見せ、第6戦テキサスではキャリア初となるオーバルコースでの優勝を獲得した。しかしランキング暫定2位で迎えた最終戦ラスベガスで多重クラッシュが発生[6]、レースはキャンセルされたためポイントが与えられず2年連続でランキング2位となった。
2012年もペンスキーから参戦。シーズン前半はアラバマ、ロングビーチ、サンパウロで3連勝を記録しポイントランキング首位を維持した。しかし中盤のオーバルでは不甲斐ない結果に終わり、後半のロード/ストリートでも優勝から遠ざかった。タイトルが懸かった最終戦フォンタナでは55周目に単独スピンでクラッシュ、25位でリタイアすると思われたが、チームがメカニック18人がかりでマシンを修復した。これによりコースに復帰したパワーは周回数を重ね24位に順位を上げた。[7]しかしランキング2位のライアン・ハンター=レイが4位を獲得したため、3点差のランキング2位に終わった。
この節の加筆が望まれています。 |
映画出演
- ターボ Turbo (2013) ※声の出演
- ^ CAMS Online Manual of Motor Sport
- ^ The Series - The Cars Australian Formula 4000 Championship
- ^ Will Power reignites old rivalry this weekend Speedcafe 2010年10月19日
- ^ 2005 Formula Renault 3.5 World Series Complete Qualifying and Race Results SpeedSport Magazine
- ^ 2006 Roshfrans Rookie Of The Year Standings Champ Car World Series
- ^ パワー自身もこの事故に巻き込まれ軽傷を負ったため、病院に検査入院しその日のうちに退院した。
- ^ 25位でレースを終えた場合の獲得ポイントは10点だが、24位に上がれば12点になる。リタイアした時点でハンター=レイがタイトルを獲得するための条件は6位以上だったが、パワーが24位上がったことでハンター=レイは5位以上でフィニッシュしなければならなくなった。
- 1 ウィル・パワーとは
- 2 ウィル・パワーの概要
- 3 レース成績
- 4 関連項目
固有名詞の分類
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