アンナ・フォン・ブランデンブルク (1487-1514) アンナ・フォン・ブランデンブルク (1487-1514)の概要

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > アンナ・フォン・ブランデンブルク (1487-1514)の解説 > アンナ・フォン・ブランデンブルク (1487-1514)の概要 

アンナ・フォン・ブランデンブルク (1487-1514)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/15 03:39 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
アンナ・フォン・ブランデンブルク
Anna von Brandenburg
ボルデスホルム修道院内にある、アンナと夫フレゼリク1世の記念寝像

出生 (1487-08-27) 1487年8月27日
神聖ローマ帝国
ブランデンブルク選帝侯領ベルリン
死去 (1514-05-03) 1514年5月3日(26歳没)
 デンマークキール
埋葬 ホルシュタイン公国、ボルデスホルム修道院
配偶者 後のデンマークフレゼリク1世
子女 クリスチャン3世
ドロテア
家名 ホーエンツォレルン家
父親 ブランデンブルク選帝侯ヨハン・ツィーツェロ
母親 マルガレーテ・フォン・ザクセン
テンプレートを表示
1502年のシュテンダル二重結婚、サロモン・コニンク(Salomon Koninck)画、1642年頃

生涯

ブランデンブルク選帝侯ヨハン・ツィーツェロとその妻でテューリンゲン方伯ヴィルヘルム3世の娘であるマルガレーテの間に生まれた。

1495年より、父はアンナおよび兄ヨアヒムと、ポーランド王室の子女との縁組を模索したが失敗し、ポーランド王位の相続権を得ようとする父の野心は実を結ばなかった[1]。1499年の父の死後、叔父のアンスバッハ辺境伯フリードリヒ2世が摂政として未成年の兄ヨアヒムに代わって選帝侯領を統治した。フリードリヒ2世は甥と姪にデンマーク王室との縁談を持ってきた。アンナの相手は、デンマーク王ハンスの年の離れた弟シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公フレゼリクであった。

1500年に婚約が成立し、婚礼はアンナの14歳の誕生日に行われることになった。アンナとフレゼリクは又従兄妹同士で近親婚にあたるため、婚姻には教皇の特免が必要とされた。ところが、結婚式を1カ月前に控えた1501年7月13日にアンナの母マルガレーテが死去したため、婚礼は延期された。アンナとフレゼリクは1502年4月10日にシュテンダル英語版で結婚した。司式はシュレースヴィヒ司教ヘニンヒ・フォン・ポクヴィッシュ(Henning von Pogwisch)が執り行った。アンナには寡婦財産として、キール城英語版とキール市が与えられた。また、アンナの兄ヨアヒムと、フレゼリクの姪のデンマーク王女エリサベトの婚礼も同時に行われ、シュテンダルでの二重結婚は大変な出費をかけて贅沢に祝われた[2]。婚礼費用はリューベックの大商人マティアス・ムーリッヒドイツ語版が調達した。花嫁持参金も期限通りに全額支払われ、そのこともアンナの評判を高めた[3]

公爵夫妻はゴットルフ城英語版に居を構えた。フレゼリクは16歳年下の幼妻を、彼女の実家の特産物にちなんで「テルトウカブドイツ語版」と呼んだ。夫は結婚後すぐに地元の農家の娘に手を出すようになった。アンナは夫の幾度かの領地巡回に随行し、臣民から領主夫人として慕われた[4]

アンナは17歳になる頃には2度の出産を経験しており、そのせいで身体は衰弱した。22歳の時に結核に罹患し、1514年に26歳で、第3子を妊娠中に死去した。夫はボルデスホルムドイツ語版ボルデスホルム修道院ドイツ語版の教会堂に、自身と妻の寝像を設置させた。これは北ヨーロッパにおいて、王家の墓所とされた教会堂内のクワイヤに寝像が置かれた最初の例である[5]。公爵夫妻はボルデスホルムの町を好み、1509年にボルデスホルム修道院の教会堂に聖歌隊席を寄贈した。1514年には、シュレースヴィヒ聖堂ドイツ語版にも聖歌隊席を贈っている。

子女


  1. ^ Fouquet: Fräulein und Gnädige Frau - Anna von Brandenburg (1487-1514), S. 20
  2. ^ Wilhelm Adolf Schmidt: Allgemeine Zeitschrift für Geschichte, Band 7-8, Veit und Comp., 1847, S. 201
  3. ^ Fouquet: Fräulein und Gnädige Frau - Anna von Brandenburg (1487-1514), S. 24
  4. ^ Fouquet: Fräulein und Gnädige Frau - Anna von Brandenburg (1487-1514), S. 30
  5. ^ Andrea Baresel-Brand: Grabdenkmäler nordeuropäischer Fürstenhäuser im Zeitalter der Renaissance 1550-1650, Verlag Ludwig, 2007, S. 96


「アンナ・フォン・ブランデンブルク (1487-1514)」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「アンナ・フォン・ブランデンブルク (1487-1514)」の関連用語

アンナ・フォン・ブランデンブルク (1487-1514)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



アンナ・フォン・ブランデンブルク (1487-1514)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのアンナ・フォン・ブランデンブルク (1487-1514) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS