Yang Yichen (Sui Dynasty)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > Yang Yichen (Sui Dynasty)の意味・解説 

楊義臣

(Yang Yichen (Sui Dynasty) から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/23 03:51 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

楊 義臣(よう ぎしん、生年不詳 - 617年)は、中国軍人。本姓は尉遅氏。本貫代郡

経歴

楊義臣の父の尉遅崇は、北周に仕えて儀同大将軍となり、常山に駐屯した。楊堅が定州総管となると、尉遅崇は楊堅が優れた人物と知って、親しくつき合った。580年、楊堅が丞相となり、尉遅迥が乱を起こすと、尉遅崇は尉遅迥の親族であったため、自ら獄に入り、使者を送って刑罰を受けることを願い出た。楊堅は信書を送ってかれを慰め、入朝させて常に側近に置いた。581年、隋が建国されると、秦興県公に封ぜられた。1年あまりして、達奚長儒の下で周盤で突厥を攻撃し、奮戦して死んだ。大将軍・豫州刺史の位を贈られ、子の義臣が官位と爵位を嗣いだ。

ときに義臣はまだ幼く、宮中で養育された。10代のころ、数年のあいだ宿衛を務めた。文帝(楊堅)は義臣に楊氏の姓を与え、皇従孫として扱い、陝州刺史に任じた。598年、突厥の達頭可汗が隋の北辺を侵すと、義臣は行軍総管として3万の兵を率いて白道に出て、突厥軍に遭遇してこれを撃破した。599年、突厥が雁門・馬邑に侵入すると、義臣は突厥軍を攻撃した。突厥軍は塞外に退却したが、義臣はこれを追撃して大斤山にいたった。太平公史万歳の軍と合流して、突厥軍を撃破した。600年、史万歳が楊素に陥れられて死去したため、義臣の対突厥戦の功績も記録されなかった。仁寿初年、朔州総管に任ぜられた。

604年煬帝が即位すると、漢王楊諒并州で乱を起こした。代州総管の李景が楊諒の部将の喬鍾葵に包囲されると、義臣は李景の救援に向かった。義臣は2万の兵を率いて、夜間に西陘を出て、夜明けに数十里を進んだ。喬鍾葵は義臣の兵の少ないのを見て、全軍でかれをはばもうとした。喬鍾葵の次将の王抜は勇敢な人物で、戦うたびに数騎で陣営を陥れたので、義臣もこれに苦しめられた。義臣は王抜に当たる者を募ると、車騎将軍の楊思恩がこれに名乗り出た。義臣は楊思恩の意気に感じて、「壮士なり」と言って酒を与えた。楊思恩は王抜の陣立てを眺めた後、さかずきを地に投げ打ち、馬に鞭打って王抜の陣に向かった。二度立ち向かって勝利できなかったので、義臣は騎士十数人を選抜して楊思恩につけた。楊思恩は突撃して数人を殺し、王抜の麾下に当たった。接近戦となると、楊思恩につけた騎士たちが退却したため、楊思恩は王抜のために殺された。王抜はこれに乗じて攻撃し、義臣の軍を十数里も退却させた。義臣は楊思恩の遺体をあがなうと、はげしく慟哭して、楊思恩を見捨てて退却した騎士たちをみな腰斬に処した。義臣は自軍が少なかったので、軍中の牛や驢馬を集めて数千頭を確保し、また兵数百人にひとり一鼓を持たせて、谷間にひそませた。義臣は日没後に喬鍾葵の軍に戦いを挑むと、戦闘開始直後に牛や驢馬を駆る者に命じて疾走させた。同時に鼓の音が鳴り響き、塵芥が天をおおったので、喬鍾葵の軍は実態を知ることなく、伏兵があるものと思いこんで潰走した。義臣は混乱する喬鍾葵の軍をほしいままに撃破した。功績により位は上大将軍に進んだ。まもなく相州刺史に任ぜられた。

607年、召還されて宗正卿となった。まもなく太僕卿に転じた。609年吐谷渾に対する征戦に従い、琵琶峡に駐屯した。義臣の陣営は、南は元寿の陣営と、北は段文振の陣営と連なり、吐谷渾王を覆袁川で包囲した。612年、第一次高句麗遠征(隋の高句麗遠征)においては、軍を率いて粛慎道を進み、鴨緑江にいたり、乙支文徳と戦って先鋒をつとめ、一日に七勝を挙げた。後に諸軍とともに敗戦し、連座して免官された。まもなくもとの位に復した。613年、第二次高句麗遠征において、隋軍の副将として、宇文述とともに平壌に向かった。鴨緑江にいたって、楊玄感の乱のために軍を返し、趙郡太守を検校した。向海明が乱を起こし、扶風と安定の間を寇掠すると、義臣は隋軍を率いて乱を平定した。614年、第三次高句麗遠征の軍が起こされると、位は左光禄大夫に進んだ。ときに河北高士達・張金称らが乱を起こして数万人を集めていた。煬帝は段達を派遣して乱を討たせたが、勝利できなかった。そこで616年、義臣に命じて高句麗遠征の帰還兵数万を率いて乱を討たせると、義臣は高士達を撃破し、張金称を斬った。反乱軍から降伏した者を収容し、豆子䴚に入り、格謙を討って捕らえた。煬帝は義臣の威名をにくんで、入朝させると、河北や山東の乱は勢力を盛り返した。義臣は功績により光禄大夫の位に進み、まもなく礼部尚書に任ぜられた。しばらくして在官のまま死去した。

伝記資料

  • 隋書』巻六十三 列伝第二十八
  • 北史』巻七十三 列伝第六十一

「Yang Yichen (Sui Dynasty)」の例文・使い方・用例・文例

Weblio日本語例文用例辞書はプログラムで機械的に例文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

Yang Yichen (Sui Dynasty)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



Yang Yichen (Sui Dynasty)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの楊義臣 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
Tanaka Corpusのコンテンツは、特に明示されている場合を除いて、次のライセンスに従います:
 Creative Commons Attribution (CC-BY) 2.0 France.
この対訳データはCreative Commons Attribution 3.0 Unportedでライセンスされています。
浜島書店 Catch a Wave
Copyright © 1995-2025 Hamajima Shoten, Publishers. All rights reserved.
株式会社ベネッセコーポレーション株式会社ベネッセコーポレーション
Copyright © Benesse Holdings, Inc. All rights reserved.
研究社研究社
Copyright (c) 1995-2025 Kenkyusha Co., Ltd. All rights reserved.
日本語WordNet日本語WordNet
日本語ワードネット1.1版 (C) 情報通信研究機構, 2009-2010 License All rights reserved.
WordNet 3.0 Copyright 2006 by Princeton University. All rights reserved. License
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
「斎藤和英大辞典」斎藤秀三郎著、日外アソシエーツ辞書編集部編
EDRDGEDRDG
This page uses the JMdict dictionary files. These files are the property of the Electronic Dictionary Research and Development Group, and are used in conformance with the Group's licence.

©2025 GRAS Group, Inc.RSS