オチルト・チェチェン・ハーン
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/20 08:58 UTC 版)
オチルト・チェチェン・ハーン[3](またはオチルトゥ・ツェツェン・カーン[1])は、オイラット八部聯合の一角ホシュート部のハーン (王)。「チェチェン」はオイラット語で「聡明」の意。[注 2]単に鄂齊爾圖・汗オチルト・ハーン[4]とも。
註釈
- ^ [参考] 漢語:拜巴噶斯 (清史稿-520), 拜布噶斯 (清史稿-522)、転写:?。
- ^ [参考] オイラット語ᡔᡄᡔᡄᠨcecen, モンゴル語ᠰᠡᠴᠡᠨsecen, 満洲語ᠰᡠᡵᡝsure。
- ^ [参考] 漢語:拜巴噶斯 (清史稿-520), 拜布噶斯 (清史稿-522)、転写:?。
- ^ [参考] 维基百科「鄂齐尔图汗」(翻訳元) には「因为收容噶尔丹的叔叔楚琥尔乌巴什,二人闹翻。1675年,噶尔丹派兵击败鄂齐尔图汗,次年鄂齐尔图汗投降。清朝和俄国史书皆说噶尔丹将鄂齐尔图汗杀死,但蒙古史料记载,鄂齐尔图彻辰汗此后一直居住在博尔塔拉,到1680年才去世。」とあるが、典拠不詳。
- ^ [参考]『清朝全史』では康熙26年のこととしているが、康熙18年時点で清朝がガルダンのハーン即位を実質的に承認しているため、ここでは康熙16年の誤りとみなした。
- ^ [参考] 漢語:拜巴噶斯 (清史稿-520), 拜布噶斯 (清史稿-522)、転写:?。
- ^ [参考] 漢語:丹津・俄木布/丹津・鄂木布, 蒙語転写:danjin ombu, 蔵語転写:bstan ḥdsin dbon po。
- ^ [参考] 漢語:阿海, 蒙語転写:aqai。
- ^ [参考] 漢語:噶勒丹・多爾濟 (清史稿-520), 噶爾亶・多爾濟 (聖祖仁皇帝實錄)。
- ^ [参考] 蒙文:ᠢᠯᠠᠭᠤᠭᠰᠠᠨᠪᠠᠨᠳᠢᠳᠠᠬᠤᠲᠤᠭᠲᠤ, 転写:ilagugsan bandida qutugtu, 漢文:伊拉古克三・班第達・呼圖克圖[4]/伊拉古克三・胡土克圖(清實錄)。*「ilagu」は勝つこと。「ilagu-gsan」で常勝の意。「bandida」はチベット仏教における学位の一つ。「qutug」は福・寿の意。「qutug-tu」で有福の意、転じて聖者、化身、活仏の意。
参照
- ^ a b 一.. “〈論説〉ツェワン・アラブタンの登場”. 史林: 51-55.
- ^ 聖祖仁皇帝實錄. -
- ^ a b c d 四. ホシュートのハーン位. “ガルダン以前のオイラット -若松説再批判-”. 東洋学報: 108-113.
- ^ a b c d e f g “阿拉善厄魯特部總傳”. 欽定外藩蒙古回部王公表傳. 79. 四庫全書
- ^ “順治15年4月18日段7093”. 世祖章皇帝實錄. 116. -
- ^ a b c “康熙16年5月19日段12201”. 聖祖仁皇帝實錄. 67. -
- ^ “康熙22年7月段14191”. 聖祖仁皇帝實錄. 111. -
- ^ “西套を併す (第35節. 外蒙古の併合)”. 清朝全史. 上. 早稲田大学出版部. pp. 556-557
- ^ “康熙18年9月6日段12951”. 聖祖仁皇帝實錄. 84. -. "……從無以擅稱汗號者准其納貢之例但噶爾丹台吉敬貢方物特遣使入告應准其獻納……"
- ^ “康熙19年8月15日”. 聖祖仁皇帝實錄. 91. -. "○厄魯特噶爾丹博碩克圖汗遣使進貢……"
- ^ “青海額魯特”. 清史稿. 522. 清史館
- ^ 二.「王国」と「ハーン国」. “ガルダン以前のオイラット -若松説再批判-”. 東洋学報: 94.
- ^ “康熙25年11月13日段15223”. 聖祖仁皇帝實錄. 128. -
- ^ a b 二.. “〈論説〉ツェワン・アラブタンの登場”. 史林: 55-57.
- ^ “康熙35年7月4日段17867”. 聖祖仁皇帝實錄. 174. -
- 1 オチルト・チェチェン・ハーンとは
- 2 オチルト・チェチェン・ハーンの概要
- 3 参照
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