マラブダとは? わかりやすく解説

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マラブダ

(Marabda から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/27 02:06 UTC 版)

マラブダ

მარაბდა
聖マリネ聖堂
国 ジョージア
州 クヴェモ・カルトリ州
地区 テトリツカロ地区(グルジア語版)
テミ (თემი) マラブダ・テミ
人口
(2014)[1]
 • 合計 488人
等時帯 UTC+4 (GET)
市外局番 359
北緯41度32分07秒 東経44度45分33秒 / 北緯41.5353度 東経44.7592度 / 41.5353; 44.7592

マラブダ(グルジア語: მარაბდა、グルジア語ラテン翻字: Marabda)は、ジョージアのクヴェモ・カルトリ州テトリツカロ地区(グルジア語版)にある集落[1]。首都トビリシの南方およそ23キロメートル、マルネウリから北に数キロメートルに位置する。現在のアハリ・マラブダ(グルジア語版)村とズヴェリ・マラブダ(グルジア語版)村に相当する。

歴史

マラブダという地名が初めて文献に登場するのは、11世紀初頭の作品『マティアネ・カルトリサ(グルジア語版)』である。

1537年から1538年にかけて、カルトリ王ルアルサブ1世(グルジア語版)の勅令によりバラタシヴィリ家(グルジア語版)の兄弟イオタムとオルベルが絶縁し、イオタムがマラブダを統治することとなった。その後マラブダはギオルギ・バラタシヴィリ、パラシャト・バラタシヴィリへと引き継がれ、バラタシヴィリ家の領地となった。

1625年、マラブダ近郊でカルトリ王国とサファヴィー朝イランの戦闘が行われた(マラブダの戦い(グルジア語版))。マラブダの北端(ズヴェリ・マラブダ)には聖マリネ聖堂(16世紀-17世紀)が建っており、言い伝えによるとマラブダの戦いで戦死した英雄ヘルヘウリゼの9兄弟(グルジア語版)がその近くに埋葬されている。現在確認可能な史料によると、マラブダは過去に2回、破壊を受けている。うち一つがマラブダの戦いによるものである。17世紀末から18世紀初頭にかけて集落の復興が行われた。

1940年代、マラブダに居住していた若者たちが集落の南側に移動した。当初の集落はズヴェリ(グルジア語: ძველი、「古い」の意)、新しい集落はアハリ(グルジア語: ახალი、「新しい」の意)を冠して呼ばれている。

出身者

  • アルセナ・オゼラシヴィリ(グルジア語版): 19世紀にジョージアの農奴制とロシアによる植民地支配に反対した英雄

参考文献

注釈

  1. ^ a b საქართველოს 2014 წლის მოსახლეობის საყოველთაო აღწერის ძირითადი შედეგები (PDF) (Report). საქართველოს სტატისტიკის ეროვნული სამსახური(英語版). 15 January 2019. p. 337. 2024年1月27日閲覧。



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