フリードリヒ・フォン・ザクセン=ヴァイマル (1596–1622)
フリードリヒ・フォン・ザクセン=ヴァイマル Friedrich von Sachsen-Weimar | |
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出生 |
1596年3月1日![]() ![]() |
死去 |
1622年8月29日(26歳没)![]() |
家名 | ヴェッティン家エルンスト系 |
父親 | ザクセン=ヴァイマル公ヨハン2世 |
母親 | ドロテア・マリア・フォン・アンハルト |
フリードリヒ・フォン・ザクセン=ヴァイマル(ドイツ語:Friedrich von Sachsen-Weimar, 1596年3月1日 - 1622年8月29日)は、エルネスティン家の一員で、三十年戦争において戦った。
生涯
フリードリヒはザクセン=ヴァイマル公ヨハン2世と、その妃でアンハルト侯ヨアヒム・エルンストの娘ドロテア・マリアとの間の三男として生まれた。兄はザクセン=ヴァイマル公ヨハン・エルンスト1世、弟に後のザクセン=ヴァイマル公ヴィルヘルム、ザクセン=ヴァイマル公アルブレヒト、ヨハン・フリードリヒ、ザクセン=ゴータ公エルンスト1世およびベルンハルトがいる。
兄ヨハン・エルンストとともにフリードリヒ・フォン・コスポートより教育を受けた。また、兄とともにイェーナ大学において、教官のフリードリヒ・ホルトレーダーおよび後の王室執事長カスパー・フォン・トイトレーベンの下で学んだ[1]。
1617年8月24日、実りを結ぶ会がヴァイマル城で発足した。創立メンバーとして伯父アンハルト=ケーテン侯ルートヴィヒ1世はフリードリヒに「希望に満ちた者(der Hoffende)」という名とモットーを与えた[2]。
数週間後、フリードリヒはグランドツアーを開始し、フランスを経由してイギリスに向かい、オランダを経由して1619年に帰国した。
兄ヨハン・エルンスト、弟ヴィルヘルムおよびヨハン・フリードリヒとともに、三十年戦争においてはプロテスタント方について戦った。
エルンスト・フォン・マンスフェルトのもとで大佐として戦いに参加した。1622年のフルーリュスの戦いにおいて、フリードリヒはハルバーシュタット司教クリスティアン・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルの連隊に加わり、スペイン軍の封鎖を突破しようとして致命傷を負った。
戦いの翌日、フリードリヒはフルーリュス近郊において26歳で死去した。
脚注
- ^ Ernst Wülcker (1894), “Teutleben, Caspar von” (ドイツ語), Allgemeine Deutsche Biographie (ADB), 37, Leipzig: Duncker & Humblot, pp. 616–617
- ^ “Mitgliederdatenbank der Fruchtbringenden Gesellschaft - 004 Herzog Friedrich von Sachsen-Weimar (Der Hoffende)”. 2021年4月12日閲覧。

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