Cabal
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/08/17 10:26 UTC 版)
Cabal(カバル)とは、かつてイングランドに存在していたグループ。イングランド・スコットランド・アイルランド王チャールズ2世に取り立てられた5人の政治家を指して名付けられた。
由来
Cabal(カバル)は元々ユダヤ教のカバラを語源とする言葉で、英語では「意見を同じくする者たちの集団」、「政治的陰謀団」といった意味の言葉であるが、この5人の政治家の頭文字もちょうどCabalになることから、この5人を指して「Cabal Ministry」(カバル内閣)と呼ぶようになった。
一覧
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クリフォード男爵トマス・クリフォード
(1630年 - 1673年) -
アーリントン伯ヘンリー・ベネット
(1618年 - 1685年) -
バッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズ
(1628年 - 1687年) -
シャフツベリ伯アントニー・アシュリー=クーパー
(1621年 - 1683年) -
ローダーデイル公ジョン・メイトランド
(1616年 - 1682年)
カバル内閣
| カバル内閣 Cabal ministry |
|
|---|---|
| イングランド王国 第2代内閣 |
|
| 1668-1674 | |
| 成立年月日 | 1668年 |
| 終了年月日 | 1674年 |
| 組織 | |
| 国王 | チャールズ2世 |
| 宮廷監察官/宮廷財務官/大蔵卿 | クリフォード男爵 |
| 財務大臣/大法官/第一商務卿
スコットランド大臣 主馬頭 南部担当国務大臣 |
シャフツベリ伯爵
ローダーデイル公 バッキンガム公 アーリントン伯 |
| 議会における地位 | 少数与党政権 |
| 詳細 | |
| 議会任期 | 2nd Parliament of Charles II |
| 前内閣 | クラレンドン内閣 |
| 次内閣 | w:First Danby ministry |
概要
チャールズ2世の治世初期はクラレンドン伯爵エドワード・ハイドが政権を運営していたが、1665年から1667年の第二次英蘭戦争でイングランドが劣勢のまま終戦に至ると反対派の突き上げに遭い失脚、フランスへ亡命した。
このため、チャールズ2世は新たにトマス・クリフォード、アーリントン男爵ヘンリー・ベネット、バッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズ、アントニー・アシュリー=クーパー、ローダーデイル伯ジョン・メイトランドの5人を側近に取り立てた。政権は5人の頭文字を取ってCabalと名付けられた(クリフォード(Clliford)、アーリントン(Arlington)、バッキンガム(Buckingham)、アシュリー(Ashley)、ローダーデイル(Lauderdale))。
5人はイングランド国教会に属さない非国教徒であること、宗教に寛容であること以外に共通点は無かったが、クリフォードとアーリントンはイングランド議会で国王派を結集してクラレンドンの外交政策を攻撃、チャールズ2世に議会内部の支持者として登用された。アシュリーはクリフォードと共に大蔵委員会の委員として財政を担当、バッキンガムは枢密顧問官、ローダーデイルはスコットランドにおけるチャールズ2世の代理としてスコットランドを統治した[1]。
外交では国務大臣のアーリントンが主導して親オランダを掲げ、1667年にフランス王ルイ14世がスペイン領ネーデルラントを侵略すると(ネーデルラント継承戦争)、1668年にウィリアム・テンプルと組んでオランダ・スウェーデンと三国同盟 (1668年)を締結、フランスの進軍を阻止した。しかし、親フランスのチャールズ2世は1670年に独断でルイ14世とドーヴァーの密約を結び、クリフォードとアーリントンがイングランド代表として調印したことは政府の外交政策が一貫していないことを表し、議会から不信感を抱かれた。
1672年3月にチャールズ2世が第三次英蘭戦争を始め、続いて4月にルイ14世がオランダ侵略戦争を勃発させると議会の反感を更に買う結果となった。戦争に先立ちチャールズ2世は1月にクリフォードの提案で国庫支払い停止を行い、3月に宗教の寛容を唱えた信仰自由宣言の発布にアシュリーが賛成、クリフォードは男爵に叙され大蔵卿に就任、アシュリーもシャフツベリ伯爵に叙され大法官に任命されたが、これらの政策に反発した議会は英蘭戦争の続行に難色を示した。
議会は1673年に戦費承認と引き換えに信仰自由宣言の撤回及び非国教徒とカトリックの公職排除を記した審査法の制定をチャールズ2世に求め、チャールズ2世が屈服して両方とも承諾するとCabalの影響力は弱まり、クリフォードはカトリックだったため同年に大蔵卿を辞任して急死、シャフツベリはドーヴァーの密約で親カトリックの裏条項を知るとチャールズ2世に反発、審査法に賛成したため大法官を追われて下野、翌1674年にアーリントンも議会に弾劾され国務大臣を辞任、バッキンガムとローダーデイルは残ったがCabalは実質的に崩壊した。以後、クリフォード辞任後に大蔵卿となったダンビー伯トマス・オズボーンが親オランダ政策を掲げ政権を率いていった[2]。
内閣の人事
カバル
| 役職 | 閣僚 | 在任期間 | 備考 | |
|---|---|---|---|---|
| 主馬頭 | ジョージ・ヴィリアーズ (第2代バッキンガム公) | 1668年–1674年 | ||
| 南部担当国務大臣 | ヘンリー・ベネット (初代アーリントン伯) | 1667年–1674年 | 1972年アーリントン男爵叙 | |
| 財務大臣
大法官 第一商務卿 |
アントニー・アシュリー=クーパー (初代シャフツベリ伯爵) | 1667年–1672年
1672年–1673年 1672年–1674年 |
1972年シャフツベリ伯爵叙 | |
| スコットランド大臣 | ジョン・メイトランド (初代ローダーデイル公) | 1667年–1674年 | 1972年ローダーデール伯爵叙 | |
| 宮廷監察官
宮廷財務官 大蔵卿 |
トマス・クリフォード (初代クリフォード男爵) | 1667年–1668年
1668年–1672年 1672年–1673年 |
1972年チャドリーのクリフォード男爵叙 | |
その他の人事
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この節の加筆が望まれています。
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脚注
参考文献
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