1966年日本グランプリ (4輪)
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1966年日本グランプリは、1966年5月3日に富士スピードウェイにて決勝レースが行われた。正式名称は「第3回日本グランプリ自動車レース大会」。
- ^ 林 『富士スピードウェイ 最初の40年』、p30(『CARグラフィック』1964年12月号記事の要約)
- ^ 当時JAFでモータースポーツ業務を担当していた本田耕介(のちのビクトリー・サークル・クラブ (VICIC) 会長)は、鈴鹿側の要求金額が1500万円から5000万円に跳ね上がったと述べている(出典:『カーグラフィック2007年9月号』、p243)。
- ^ ホンダはF1に参戦、三菱はフォーミュラ・コルト路線に転向、東洋工業はロータリーエンジンで海外ツーリングカーレースに参加。富士重工はレース部門を解散し、鈴木自工は一時レース活動を休止した。
- ^ 日産・フェアレディSは日本GP出場後一般公開されたことがなく、幻のマシンと呼ばれる。開発経緯については、ヤマハとの関係など謎が多い。参考サイト:日産の歴史-謎のマシン-
- ^ ピットの天井に吊るしたタンクからホースを垂らし、重力の加圧によって給油時間を短縮する装置。日本GPでは機械式装圧器の使用が禁じられていたための工夫だった。
- ^ 『日本の名レース100選 Volume055 '66 第3回日本GP』 p41
- ^ 林 『富士スピードウェイ 最初の40年』 p49 - 50(『富士スピードウェイ年鑑第1集』より引用)
- ^ 林 『富士スピードウェイ 最初の40年』 p30(『JAF創立10周年記念 拾手の歩み 』より引用)
- ^ GP企画センター編 『サーキットの夢と栄光 日本の自動車レース史』 p82
- 1 1966年日本グランプリ (4輪)とは
- 2 1966年日本グランプリ (4輪)の概要
- 3 エピソード
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