鷹栖城とは? わかりやすく解説

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鷹栖城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/06 07:39 UTC 版)

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鷹栖城
岡山県
別名 高栖営址
城郭構造 山城
天守構造 なし
築城主 有元近江守?
築城年 不明
主な城主 菅左近将監(菅納家俊)、豊前守、五郎右衛門(菅納家晴
廃城年 不明
遺構 曲輪土塁井戸
指定文化財 未指定
位置 北緯34度53分08.0秒 東経133度55分43.3秒 / 北緯34.885556度 東経133.928694度 / 34.885556; 133.928694座標: 北緯34度53分08.0秒 東経133度55分43.3秒 / 北緯34.885556度 東経133.928694度 / 34.885556; 133.928694
地図
鷹栖城
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鷹栖城(たかのすじょう)は、岡山県岡山市北区建部町下神目にあった戦国時代日本の城山城)。

概要

JR津山線が走る誕生寺川の谷底平野に面した標高約200メートルの丘陵突端に立地する。1923年(大正12年)刊の『久米郡誌』では「高栖営址」とし、美作菅氏の嫡流・有元氏の有元近江守の築城とする[1]

西向きに傾斜する丘陵稜線に複数の曲輪を段状に構え、最上部の曲輪の脇に土塁井戸を設けているという[2]

1689年元禄2年)に下神目村の菅善三郎が津山藩に提出した「下神目村書上」(『菅家文書』)によると、有元氏(あるいは漆間氏?)の庶流・菅納家俊(菅左近将監)が、同じく建部町下神目に所在する伊勢畑城の城主・赤松家盛の家臣として在城し、子の豊前守、孫の菅納家晴(五郎右衛門)へと続いたとされている[1][3][4]赤松氏滅亡の際に浦上宗景に領地を奪われたという[2]。2011年(平成23年)刊『美作国の山城 改訂版』では下神目地域の土豪層の城であろうと推定されている[5]

なお当城跡についての情報は、上述『美作国の山城 改訂版』に解説があり、現在の岡山県の埋蔵文化財地図にも位置が掲載されているが[6]、2020年(令和2年)刊の『岡山県中世城館跡総合調査報告書(第3分冊・美作国編)』では「下神目村書上」にみえる当城についての記載を紹介するのみで[4]、実地調査の対象や、地域の城跡一覧および分布図には全く加えられていない。

脚注

  1. ^ a b 久米郡教育会 1923 p.123
  2. ^ a b 「美作国の山城」編集委員会 2011 p.359
  3. ^ 平井ほか 1980 p.495
  4. ^ a b 岡山県古代吉備文化財センター 2020 p.513
  5. ^ 「美作国の山城」編集委員会 2011 p.358
  6. ^ 「おかやま全県統合型GIS(遺跡地図)」岡山県公式HP

参考文献

  • 「美作国の山城」編集委員会 2011「鷹栖城」『美作国の山城 改訂版』津山市教育委員会生涯学習部文化課 pp.358-359

関連項目




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