風間栄一
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風間 栄一(かざま えいいち、1916年2月19日 - 2001年5月8日)は、新潟県出身のアマチュアレスリング選手。日本レスリング界の第一人者として知られる。
経歴
1933年、新潟商業学校(現在の新潟県立新潟商業高等学校)[注釈 1]から早稲田大学に進み、第1回全日本選手権でライト級を制覇した[2]。
1936年ベルリンオリンピックにも出場してフリースタイル・ライト級で5位入賞を果たす[2]。1938年には全日本学生選抜チームを率いてアメリカに遠征し、12戦全勝の記録を残した[2]。
日本国内でも、2階級(66キロ級、72キロ級)に渡り全日本選手権で10度の優勝を達成し、1950年までの間不敗を維持するなど、日本のアマチュアレスリング創成期をけん引した選手であった[2][3]。
一時期、第二次世界大戦によって選手活動中断に追い込まれる。1939年(昭和14年)短期現役海軍主計科士官(2期)を志願し、同年5月、海軍経理学校に入学し海軍主計中尉に任官[4]。同年9月に卒業[4]。支那方面艦隊司令部付となり上海の出雲に赴任[4]。漢口特務部付、漢口特別根拠地隊付、葛城主計長を歴任[4]。1941年(昭和16年)5月、主計大尉に昇進し能代川丸主計長に就任[4]。以後、舞鶴鎮守府付、那智主計長、経理学校教官、土浦海軍航空隊主計長を務め、1943年(昭和18年)6月、予備役に編入された[4]。1944年2月に応召しセブ海軍武官付となり、同年11月、主計少佐に進み終戦を迎えた[4]。
戦後の1948年に地元に戻り、選手活動の傍ら新潟商業高校・新潟高校で後進の育成と指導に取り組んだ[2]。1953年現役を引退[2]。また、風間株式会社を創立し取締役社長となり、新潟衣料工業社長も務めた[4]。
その後、新潟県アマチュアレスリング協会会長、新潟県体育協会副会長を務め、1964年の東京オリンピックで日本代表監督を務め、金メダル5個をもたらす[2]。1987年から1989年まで日本レスリング協会会長も務めた[2][3]。
2001年5月8日逝去。享年85[3]。風間の功績をたたえて、「新潟スポーツ展示室」(東北電力ビッグスワン内バックスタンド側1階)では彼に関する資料や東京オリンピックの際に着用していたユニフォームなどを収蔵している[2]。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 『海軍主計科士官物語〈短現総覧〉』浴恩出版会、1968年。
関連項目
外部リンク
- 風間栄一 - Olympedia
固有名詞の分類
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