韓徳枢とは? わかりやすく解説

韓徳枢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/08 02:59 UTC 版)

韓 徳枢(かん とくすう、生年不詳 - 969年)は、(契丹)の政治家本貫幽州安次県

経歴

韓延徽の子として生まれた。15歳のときに太宗と面会すると、太宗は韓延徽に対して「この子は卿の家の福であり、朕の国の宝であり、真の英物である」と評した。徳枢は成人しないうちに、左羽林大将軍を代行し、特進太尉に転じた。

ときに契丹に降伏した漢人の多くは東平に移住させられていたが、そこへ飢饉と疫病の災禍が襲った。徳枢は救恤を志願して、遼興軍節度使に任じられた。害虫を駆除し、食糧を援助し、農業や養蚕を勧めて、教化をほどこすと、数カ月のうちに民衆は安息を取り戻した。

入朝して南院宣徽使となり、天平軍節度使や平灤営三州管内観察処置等使に遙任され、門下平章事となった。開府儀同三司の位を加えられ、侍中を代行し、趙国公に封じられた。保寧元年(969年)、死去した。

子孫

  • 韓紹勲(東京戸部使、大延琳の乱にさいして捕らえられたが屈服せず、惨死した)
  • 韓紹芳(参知政事・侍中、西夏に対する攻撃に反対して、広徳軍節度使として出された)

伝記資料





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「韓徳枢」の関連用語

1
16% |||||

韓徳枢のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



韓徳枢のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの韓徳枢 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS