陶凱とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 陶凱の意味・解説 

陶凱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/23 02:24 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

陶 凱(とう がい、生年不詳 - 1376年)は、初の学者官僚は中立。本貫台州臨海県

生涯

元の至正年間、明経に挙げられた。郷里の推薦を受けて、永豊教諭に任じられたが、就任しなかった。明の洪武初年、推薦により南京に召し出されて入朝し、『元史』の編纂に参加した。書が完成すると、翰林応奉に任じられ、大本堂で教習し、楚王朱楨に経学を教授した。1370年(洪武3年)7月、崔亮とともに礼部尚書となった。軍礼および品官墳墓の制は、陶凱の提議によって定められた。この年のうちに崔亮が死去すると、陶凱は単独の礼部尚書となり、科挙の方式を定めた。翌年、会試が行われると、陶凱は主考官にあてられ、呉伯宗ら120人を合格させ、殿試に進ませた。また陶凱は太廟にすでに常祀があったことから、乾清宮の左に別に奉先殿を建て、神御を奉じるよう請願した。1372年(洪武5年)、陶凱は会要を編纂するよう上奏し、洪武帝に聞き入れられた。1373年(洪武6年)2月、湖広参政として出向した。致仕した。1375年(洪武8年)、国子祭酒として起用された。翌年、晋王府左相に転じた。

陶凱は博学で、詩文に巧みであった。洪武帝は前代の楽章に阿諛の詞が多く、文章が洗練されていないのを嫌がって、陶凱と詹同に命じて改作させた。一時は詔令・封冊・歌頌・碑誌の多くが陶凱の手によって書かれていた。陶凱はかつて自ら耐久道人と号したことがあった。洪武帝はこれを聞いてかれを憎んだ。礼部に在任していた時朝に主客曹を高麗への使節として赴かせて、符験を誤用したことが罪に問われて、死刑を論告された。金牌により一死を免じられるところであったが、自ら楚王投水事件の責任を持ち出して死刑を受けた。太子少保の位を追贈された。張籌らとの共著として『宗藩昭鑑録』5巻[1]があった。

脚注

  1. ^ 明史』芸文志二および張籌伝

参考文献

  • 『明史』巻136 列伝第24
  • 『罪惟録』列伝巻之八中



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  陶凱のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「陶凱」の関連用語

陶凱のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



陶凱のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの陶凱 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS