趙炳 (元)とは? わかりやすく解説

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趙炳 (元)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/09 15:10 UTC 版)

趙 炳(ちょう へい、1222年 - 1280年)は、モンゴル帝国大元ウルス)に仕えた漢人の一人。字は彦明。恵州灤陽県の出身。

概要

趙炳の父の趙弘はモンゴル帝国初期に征行兵馬都元帥に任じられ、最終的に奉国上将軍の位にまで至った人物であった[1]。ある時飢饉のため平州に赴いた時、盗賊が趙炳とその兄を捕らえたが、当時12歳の趙炳が泣いて兄の代わりになると訴えたため、感じ入った盗賊がこれを解放したとの逸話が伝えられている。その後、即位前のクビライに仕えて働きぶりを認められ、趙炳は撫州の長に抜擢された[1]1259年己未)、モンゴル帝国による第二次南宋侵攻が開始されたが、皇帝モンケの急死に伴って遠征は中止となった上、モンケの後継者の地位を巡って帝位継承戦争が勃発した。この時、趙炳は敵対するアリクブケ派が徴発した財物を民に返すことで民意を得、クビライから賞賛されたという[1][2]

1260年(中統元年)には判北京宣撫司事に命じられ、契丹人女真人が雑居し「難治」と称された遼東地方の統治を担当した[1]。先に楊果が北京宣撫使に任じられていたが、趙炳の任命を聞いて「これで憂いることはない」と語ったという[1]。これは単に趙炳の手腕が期待されただけではなく、大きな軍事力を有する趙炳が軍事的保障となることが期待されたためで、同様の例として真定路総管とされた史楫が挙げられる[1]1262年(中統3年)には北京鷹坊の戸丁を徴発して兵とし、李璮の反乱鎮圧に加わった[1]。趙炳は李璮の籠城する済南包囲の北面を担当し、捕虜とした者がいても「脅されて従っていたのだろう」としてすぐに解放したという[3]

李璮の乱平定後、刑部侍郎・兼中書省断事官に任命された。その後枢密院断事官に改められ、済南で反乱が起こると昭勇大将軍・済南路総管に任命されて反乱鎮圧に従事した[4]

1272年(至元9年)、関中を重視するクビライは趙炳を京兆路総管・兼京兆府尹に任命した。このころ、クビライの息子の一人のマンガラが安西王に封ぜられて旧西夏国領(タングート地方)を統括するようになっており、趙炳はマンガラの配下として安西王府の庶務を担当した。趙炳は民に横暴を働く卒を厳しく取り締まったため、この地方の民の暮らしは安定したという。また、解州地方の塩利は安西王府の経費として収められることとなっていたが、連年の徴収で民は疲弊し、以前の3分の1しか収穫できなくなっていた。そこで趙炳がマンガラに進言し、徴収をやめさせたという[5][6]

1277年(至元14年)には、鎮国上将軍・安西王相の地位を加えられた。安西王府は遊牧国家の伝統として、冬は京兆府、夏は六盤山の季節移動を行っていた。しかし同年にシリギの乱に連動して南平王トゥクルクが六盤山で反乱を起こし、趙炳も京兆府の軍団を率いて反乱鎮圧に従事した[7]1278年(至元15年)にマンガラが帰還すると反乱鎮圧の功績を評価されたが、この年11月にマンガラは父に先立って死去してしまい、息子のアナンダが安西王位を継いだ[8]

1279年(至元16年)秋、クビライに謁見した趙炳はそれまでの労苦をねぎらわれたが、その場で運使の郭琮・郎中の郭叔雲らがアナンダが幼いことを理由にほしいままに不法行為を行っていると訴えた[9]。そこでクビライは趙炳を中奉大夫・安西王相・兼陝西五路西蜀四川課税屯田事の地位に改め、勅使数名ととももに安西王府に派遣した[9]。ところが趙炳が安西王府に帰還すると、郭琮が王旨を偽造し、趙炳は偽りの罪状によって妻とともに捕らえられてしまった[9]。当時アナンダは六盤山に滞在していたため、趙炳は平涼の北の崆峒山に移されて厳しく監視された[9]。これを知った趙炳の子の趙仁栄は朝廷に訴え出て、これを受けて近侍二人が趙炳救出のため派遣された[9]。しかしこれを迎えた郭琮は使者を酒宴で留めて時間稼ぎする一方、密かに配下の者を遣わして趙炳を毒殺してしまった[9]。趙炳が死去したのは1280年(至元17年)3月のことで、当時趙炳は59歳であり、この時隕石が見られたという[10]

趙炳の息子は趙仁顕・趙仁表・趙仁栄・趙仁旭・趙仁挙・趙仁軌の6人で、趙仁顕は早くに亡くなり、趙仁栄は中書平章政事の地位にまで至ったことが知られている[11]

脚注

  1. ^ a b c d e f g 牧野 2012, p. 261.
  2. ^ 『元史』巻163列伝50趙炳伝,「趙炳字彦明、恵州灤陽人。父弘、有勇略、国初為征行兵馬都元帥、積階奉国上将軍。炳幼失怙恃、鞠于従兄。歳饑、往平州就食、遇盗、欲殺之、兄解衣就縛。炳年十二、泣請代兄、盗驚異、捨之而去。甫弱冠、以勲閥之子、侍世祖於潜邸、恪勤不怠、遂蒙眷遇。世祖次桓・撫間、以炳為撫州長、城邑規制、為之一新。己未、王師伐宋。未幾、北方有警、括兵斂財、燕薊騒動。王師北還、炳遠迓中途、具以事聞、追所括兵及横斂財物、悉帰于民、世祖嘉其忠」
  3. ^ 『元史』巻163列伝50趙炳伝,「中統元年、命判北京宣撫司事。北京控制遼東、番夷雑処、号称難治。時参知政事楊果為宣撫使、聞炳至、喜曰『吾属無憂矣』。三年、括北京鷹坊等戸丁為兵、蠲其賦、令炳総之。時李璮叛、拠済南、炳請討之。国兵囲城、炳将千人独当北面、有所俘獲、即縦遣去、曰『脅従之徒、不足治也』」
  4. ^ 『元史』巻163列伝50趙炳伝,「済南平、入為刑部侍郎、兼中書省断事官。時有携妓登龍舟者、即按之以法、未幾、其人死、其子犯蹕訴冤、詔譲之、炳曰『臣執法尊君、職当為也』。帝怒、命之出、既而謂侍臣曰『炳用法太峻、然非循情者』。改枢密院断事官。済南妖民作乱、賜金虎符、加昭勇大将軍・済南路総管。炳至、止罪首悪、餘党解散。歳凶、発廩賑民、而後以聞、朝廷不之罪也。遷遼東提刑按察使、遼東聞其来、豪猾屏跡」
  5. ^ 松田 1979, p. 64.
  6. ^ 『元史』巻163列伝50趙炳伝,「至元九年、帝念関中重地、風俗強悍、思得剛鯁旧臣以臨之、授炳京兆路総管、兼府尹。皇子安西王開府于秦、詔治宮室、悉聴炳裁制。王府吏卒横暴擾民者、即建白、縄以法。王命之曰『後有犯者、勿復啓、請若自処之』。自是豪猾斂戢、秦民以安。有旨以解州塩賦給王府経費、歳久、積逋二十餘万緡、有司追理、僅獲三之一、民已不堪。炳密啓王曰『十年之逋、責償一日、其孰能堪。与其裒斂病民、孰若恵沢加于民乎』。王善其言、遂命免徴。会王北伐、詔以京兆一年之賦充軍資、炳復請曰『所徴逋課、足佐軍用、可貸歳賦、以蘇民力』。令下、秦民大悦」
  7. ^ 杉山 2004, p. 300.
  8. ^ 『元史』巻163列伝50趙炳伝,「十四年、加鎮国上将軍・安西王相。王府冬居京兆、夏徙六盤山、歳以為常。王既北伐、六盤守者搆乱、炳自京兆率兵往捕、甫及再旬、元悪授首。十五年春、六盤再乱、復討平之。王還自北、嘉賞戦功、賚賜有加。是歳十一月、王薨」
  9. ^ a b c d e f 松田 1979, p. 50.
  10. ^ 『元史』巻163列伝50趙炳伝,「十六年秋、被旨入見便殿、帝労之曰『卿去数載、衰白若此、関中事煩可知已』。詢及民間利病、炳悉陳之、因言王薨之後、運使郭琮・郎中郭叔雲窃弄威柄、恣為不法。帝臥聴、遽起曰『聞卿斯言、使老者増健』。飲以上尊馬湩。改中奉大夫・安西王相・兼陝西五路西蜀四川課税屯田事、餘職如故、即令乗伝偕勅使数人往按琮等。至則琮仮嗣王旨、入炳罪、収炳妻孥囚之。時嗣王之六盤、徙炳等于平涼北崆峒山、囚閉益厳。炳子仁栄訴于上、即詔近侍二人馳駅而西、脱炳、且械琮党偕来。琮等留使者、酔以酒、先遣人毒炳于平涼獄中、其夜星隕、有声如雷、年五十九、実十七年三月也。帝聞之、撫髀嘆曰『失我良臣』。俄械琮等百餘人至、帝親鞫問、尽得其情、既各伏辜、命仁栄手刃琮・叔雲于東城、籍其家以付仁栄、仁栄曰『不共戴天之人、所蓄之物、皆取于民、何忍受之』。帝善之、別賜鈔二万二千五百緡、為治喪具。国朝旧制、無賻臣下礼、蓋殊恩也。六月、詔雪炳冤、特贈中書左丞、諡忠愍」
  11. ^ 『元史』巻163列伝50趙炳伝,「子六人。仁顕、早亡。次仁表・仁栄・仁旭・仁挙・仁軌。仁栄、仕至中書平章政事。餘倶登顕仕」

参考文献

  • 元史』巻163列伝50趙炳伝
  • 新元史』巻167列伝64趙炳伝
  • 松田孝一「元朝期の分封制 : 安西王の事例を中心として」『史學雜誌』88号、1979年
  • 藤野彪/牧野修二編『元朝史論集』汲古書院、2012年
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年



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