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能美房次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/13 15:02 UTC 版)

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能美房次
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 弘治2年(1556年
改名 能美房次→能美世次
主君 大内義隆大内義長
某、能美万菊丸
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能美 房次(のうみ ふさつぐ)は、戦国時代の武将。大内氏家臣。

生涯

天文22年(1553年)3月20日、大内氏重臣・陶晴賢が能美加賀守に対し、縫殿允賢俊という人物の割分地没収および、房次の次男万菊丸への譲与について了承する旨を伝えている[1]

防芸引分と能美衆

天文23年(1554年)5月、毛利氏が大内氏に叛旗を翻し、一挙に佐東金山己斐草津桜尾の諸城および厳島を占領した(防芸引分)。「能美衆」は一旦毛利氏に従ったものの、7月、人質を見殺しににして大内方に立った[2][3]。このため9月頃、毛利方の小早川氏阿曾沼氏らの水軍が能美島への攻撃を繰り返している[4][5][6]

天文24年(1555年)10月の厳島合戦後も、房次は大内方に留まっていた。弘治2年(1556年)10月21日、能美万菊に対し、大内義長が父世次(房次)[注釈 1]の跡目を安堵している[注釈 2][1]。この時すでに、世次(房次)は死去していたと考えられる。

脚注

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注釈

  1. ^ 前述の通り、万菊丸は房次の次男であり、世次と房次は同一人物と考えられる。これより前、世次と改名していたとみられる。
  2. ^ 同日付で小原隆言内藤隆世も連署奉書により、跡目について万菊に通達している。

出典

  1. ^ a b 「山野井文書」(広島県 編 『広島県史 古代中世資料編4』 1978年 p.126)
  2. ^ 下向井龍彦 「第3章 中世の音戸」(町誌編纂検討委員会編 『音戸町誌』2005 p.74)
  3. ^ 「萩藩譜録 白井友之進胤延」( 土井聡朋・村井祐樹・山内治朋 編『戦国遺文 瀬戸内水軍編』 2012年 p.405)
  4. ^ 「閥閲録 巻48 阿曾沼六左衛門」( 山口県文書館 編『萩藩閥閲録 第2巻』 1968年 p.253)
  5. ^ 「閥閲録 巻146 三増源右衛門」( 山口県文書館 編『萩藩閥閲録 第4巻』 1971年 p.116)
  6. ^ 「芸備郡中士筋者書出 所収文書」(『広島県史 古代中世資料編Ⅴ』 広島県 1980年 p.1432)



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