耶律朔古とは? わかりやすく解説

耶律朔古

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/30 00:35 UTC 版)

耶律朔古(やりつ さくこ、生没年不詳)は、(契丹)の政治家軍人は弥骨頂。

経歴

横帳孟父の末裔とされる。幼いころは耶律阿保機に養われた。成人すると、右皮室詳穏となった。渤海征伐に従軍し、戦功を挙げた。

天顕7年(932年)、太宗により三河烏古部都詳穏に任じられた。部民に近しく親しんだので、部民も朔古になつき、このためその任にあることが長かった。会同年間、惕隠となった。会同9年(946年)、太宗が後晋石重貴を攻撃し、軍が滹沱河にいたると、一カ月あまりの退陣の後に渡河し、朔古は趙延寿とともに中渡橋に拠って杜重威を退却に追い込み、降伏させた。またこの年のうちに開封に入城した。

天禄元年(947年)、世宗が即位すると、朔古は太宗の喪を奉じて上京に帰還した。皇太后の起兵を助けたため、免官された。

伝記資料

  • 遼史』巻76 列伝第6




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「耶律朔古」の関連用語

1
14% |||||

2
8% |||||

耶律朔古のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



耶律朔古のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの耶律朔古 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS