美は乱調にあり
(美は乱調にあり (キャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンドのアルバム) から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/15 18:39 UTC 版)
『美は乱調にあり』 | ||||
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キャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンド の スタジオ・アルバム | ||||
リリース | ||||
録音 | ||||
ジャンル | ブルース・ロック | |||
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キャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンド アルバム 年表 | ||||
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『美は乱調にあり』(Doc at the Radar Station)は、ドン・ヴァン・ヴリートが率いるキャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンドが1980年に発表した通算11作目に相当するアルバムである[注釈 1]。
解説
経緯
キャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンドは1978年6月から8月にかけて前作『シャイニー・ビースト(バット・チェイン・プラー)』を製作して秋にアメリカでワーナー・ブラザーズから発表し[1]、11月にはヴァン・ヴリート、ブルース・ファウラー(トロンボーン)、ジェフ・モリス・テッパー(ギター)、エリック・ドリュー・フェルドマン(キーボード)、ロバート・ウイリアムス(ドラムス)、リチャード・レダス(ギター)にファウラーのガールフレンド(パントマイム、マラカス)を加えた顔ぶれで短い国内ツアーを行なった[注釈 2][2]。
彼等は1979年には目立った活動を何ら行なわなかったが、ヴァン・ヴリートはDoc at the Rader Station[注釈 3]という新作アルバムを制作する意向を同年秋に示し、年末にゲイリー・ルーカス[注釈 4]を新しいマネージャーに迎えた[3]。一方、イギリスではワーナー・ブラザーズとヴァージン・レコードの交渉が難航して[注釈 5]、この年が終わっても『シャイニー・ビースト(バット・チェイン・プラー)』は発表されなかった[4]。
1980年2月、ようやくイギリスで『シャイニー・ビースト(バット・チェイン・プラー)』がヴァージン・レコードから発表された[5]。新作の制作開始予定日の直前にレダスが脱退したので、彼等はドラマー兼ギタリストのジョン・フレンチを再々度迎えて[注釈 6]、6月の数週間に亘って本作を制作した[6]。
内容
「フレイヴァー・バッド・リヴィング」「ブリックバッツ」「ア・キャロット・イズ・アズ・クローズ・アズ・ア・ラビット・ゲッツ・トゥー・ア・ダイアモンド(人参と兎とダイアモンド)」の3曲は、当時未発表だった『バット・チェイン・プラー』の収録曲の再録音版である[7]。
ジャケットの絵は、ヴァン・ヴリートの作品である[8]。
収録曲
作詞・作曲はDon Van Vlietによる。邦題は日本盤CD[9]に準拠。
オリジナルLP
CD
# | タイトル | 時間 |
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1. | 「ホット・ヘッド Hot Head」 | |
2. | 「アシュトレイ・ハート Ashtray Heart」 | |
3. | 「ア・キャロット・イズ・アズ・クローズ・アズ・ア・ラビット・ゲッツ・トゥー・ア・ダイアモンド(人参と兎とダイアモンド) A Carrot Is as Close as a Rabbit Gets to a Diamond」 | |
4. | 「ラン・ペイント・ラン・ラン Run Paint Run Run」 | |
5. | 「スー・エジプト Sue Egypt」 | |
6. | 「ブリックバッツ Brickbats」 | |
7. | 「ダーティー・ブルー・ジーン Dirty Blue Gene」 | |
8. | 「ベスト・バッチ・イエット Best Batch Yet」 | |
9. | 「テレフォン Telephone」 | |
10. | 「フレイヴァー・バッド・リヴィング Flavor Bud Living」 | |
11. | 「シェリフ・オブ・ホンコン Sheriff of Hong Kong」 | |
12. | 「メイキング・ラヴ・トゥ・ア・ヴァンパイア・ウィズ・ア・モンキー・オン・マイ・ニー(吸血鬼その異常なる愛) Making Love to a Vampire with a Monkey on My Knee」 | |
合計時間:
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参加ミュージシャン
番号はCDのトラック・ナンバーを示す。
- キャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンド
- Captain Beefheart Don Van Vliet – ヴォーカル、チャイニーズ・ゴング、ハーモニカ、ソプラノ・サクソフォーン、ベース・クラリネット,
- ジョン・フレンチ John French – スライド・ギター、ギター、ベース・ギター(11)、ドラムス(2、11)、マリンバ(12)、ヴォーカル(4、7)
- ジェフ・モリス・テッパー Jeff Moris Tepper – スライド・ギター、ギター、ナーヴ・ギター、バックグラウンド・ヴォーカル(4)
- エリック・ドリュー・フェルドマン Eric Drew Feldman – シンセサイザー、ベース・ギター、メロトロン、グランド・ピアノ、エレクトリック・ピアノ、バックグラウンド・ヴォーカル(4)
- Robert Arthur Williams – ドラムス、バックグラウンド・ヴォーカル(4)
- 客演
- ゲイリー・ルーカス Gary Lucas – ギター(10)、フレンチホルン (8)
- ブルース・ファウラー Bruce Lambourne Fowler – トロンボーン(4)
脚注
注釈
- ^ 1960年代に発表した3作のアルバムと『ミラー・マン』(1971年)はキャプテン・ビーフハート・アンド・ヒズ・マジック・バンド名義だった。『ミラー・マン』はヒズ・マジック・バンド時代の1967年の未発表音源集。『ザ・スポットライト・キッド』(1972年)はキャプテン・ビーフハート名義だった。
- ^ 同年11月18日にニューヨーク州ロズリンで開かれたコンサートの音源が、2000年にライノ・レコードからI'm Going to Do What I Wanna Do: Live at My Father's Place 1978として発売された。
- ^ 砂漠で航空管制官として働く友人に因んだ命名。
- ^ ギタリスト兼ソングライター。1972年にヴァン・ヴリートにラジオ・インタビューして以来、彼と交流を保っていた。
- ^ 1973年にキャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンドのマネージャーになったアンディ・ディマルティーノとデイブ・ディマルティーノの兄弟は、それまでのリプリーズ(ワーナー・ブラザーズの子会社)との契約を捨てて、アメリカではマーキュリー・レコード、イギリスではヴァージン・レコードと契約を結んだ。彼等はディマルティーノ兄弟のマネージメントの下で『アンコンディショナリー・ギャランティード』(1974年)と『ブルージーンズ・アンド・ムーンビームズ』(1974年)の2作を発表した後に解散。1977年にヴァン・ヴリートはバンドを再結成して新マネージャーのハリー・ダンカンの下で『シャイニー・ビースト(バット・チェイン・プラー)』を製作したが、ディマルティーノ兄弟がイギリスでヴァージン・レコードと結んだ契約はまだ有効だったので、この作品がイギリスで発表されるためには、ワーナー・ブラザーズとヴァージン・レコードの交渉が必要だった。
- ^ デビュー・アルバム『セイフ・アズ・ミルク』(1967年)から6作目の『ザ・スポットライト・キッド』(1972年)まで参加して離脱し、再加入して1976年に制作された『バット・チェイン・プラー』(2012年)に参加した後に再度離脱した。
出典
- ^ Barnes (2011), pp. 247–251.
- ^ Barnes (2011), pp. 252–253.
- ^ Barnes (2011), pp. 257–259.
- ^ Barnes (2011), p. 256.
- ^ Barnes (2011), p. 259.
- ^ Barnes (2011), pp. 259–260.
- ^ Barnes (2011), p. 265.
- ^ Barnes (2011), p. 260.
- ^ “Discogs”. 2025年4月26日閲覧。
引用文献
- Barnes, Mike (2011). Captain Beefheart: The Biography. London: Omnibus Press. ISBN 978-1-78038-076-6
関連項目
- 美は乱調にあり (キャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンドのアルバム)のページへのリンク