田井耕耘とは? わかりやすく解説

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田井耕耘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/22 14:11 UTC 版)

田井 耕耘(たい こううん、慶応元年9月15日[1]1865年11月3日) - 昭和11年(1936年11月3日[1])は、明治から昭和にかけての女性日本画家

来歴

尾形月耕の門人[1]。本名は起く、俗名は喜久(子)、月耕の門下となってからは耕耘と号した[1]。慶応元年、紀州家御典医であった田井俊斎となつの次女として生まれる[1]。月耕の弥左衛門町時代(明治15年〈1882年〉 - 明治19年〈1886年〉)からの門人と伝わる[1]。明治21年(1888年)3月、月耕と結婚し、同年9月に長男の正子(まさつぐ、のちの尾形月山)を生む[註 1]。のち明治30年(1897年)には長女の玉子(玉耕)が生まれた[1]

明治24年(1891年)、日本青年絵画協会臨時研究会に「今様処女」を出品し五等褒状を得る。明治32年(1899年)、錦絵の作として唯一確認できる「踊姿絵」シリーズを発表した[3]。明治33年(1900年)春の第8回日本絵画協会・第3回日本美術院連合絵画共進会において「恋無情」が二等褒状を、同年秋の第9回日本絵画協会・第4回日本美術院連合絵画共進会において「砧」が三等褒状を得ている。

昭和11年11月3日に71歳で没した[1]。墓所は夫の月耕、息子の月山と伴に雑司ヶ谷霊園にある[1]

作品

脚注

註釈

  1. ^ 但し、月山の生年月日は明治20年(1887年)9月10日とするものもある[2]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i 塚本(2019年)42頁
  2. ^ 尾形月山(おがた・げっさん)” (PDF). 近代版画家名覧(1900-1945). 版画堂. p. 6. 2022年8月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年3月12日閲覧。
  3. ^ 『ラスト・ウキヨエ』によると全14枚が知られる。

参考文献

関連項目




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