泉龍院 (長野県豊丘村)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 泉龍院 (長野県豊丘村)の意味・解説 

泉龍院 (長野県豊丘村)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/29 19:38 UTC 版)

泉龍院
泉龍院 山門
所在地 長野県下伊那郡豊丘村河野3461
位置 北緯35度34分07.8秒 東経137度54分57.9秒 / 北緯35.568833度 東経137.916083度 / 35.568833; 137.916083座標: 北緯35度34分07.8秒 東経137度54分57.9秒 / 北緯35.568833度 東経137.916083度 / 35.568833; 137.916083
山号 池康山
院号 泉龍院
宗派 曹洞宗
本尊 十一面観世音
創建年 永享11年(1439年
開山 物外性応
法人番号 8100005010118
テンプレートを表示

泉龍院(せんりゅういん)は長野県下伊那郡豊丘村河野地区にある曹洞宗の寺院。山号を池康山と称する。本尊は十一面観世音である。

歴史

寺伝によれば、この地域を収めていた、知久氏が、永享11年(1439年)遠州大洞院、如仲禅師の弟子物外性応を請じて開山始祖とし、別地にあった寺院を現在地に移し、大洞院の末寺として曹洞宗に改変、知久氏に庇護され寺運も隆盛する。天文23年(1554年)武田信玄と知久氏の戦火により泉龍院は焼失、衰退する[1]

徳川家康天下統一、慶長6年(1601年)知久則直、知久阿島領主として復権し、泉龍院も14世外山梵教和尚、二代知久直政の長子直明を中興の開基に仰ぎ、再建復興する。

昭和18年(1943年)大東亜戦争時、梵鐘を供出、現存する梵鐘は昭和32年(1957年)36世隆英和尚時、京都三和梵鐘鋳造所が鋳造した梵鐘である[1]

山門は昭和57年(1982年)に豊丘村指定有形文化財に指定されている。経蔵と並んで衆寮があったが現在は廃堂となり、その敷地に三色藤が植えられ、藤の名所になっている。

境内

  • 本堂 - 明和7年(1770年)建立、22世 釣宝英千和尚。奥行9間(16.4m)、間口12間(21.8m)、高さ8間1尺(14.8m)。
  • 鐘楼 - 文化12年(1815年)建立、26世 快芳悦巌和尚。竪3間(5.5m)、横3間(5.5m)、高さ5間2尺5寸(9.9m)。
  • 山門 - 文政元年(1818年)建立、26世 快芳悦巌和尚。奥行3間半(6.4m)、間口4間(7.3m)、高さ7間6寸(12.9m)の2層楼。4面に雄渾秀麗なる彫刻を施してあり、この彫刻は立川和四郎の弟子、小松松四郎作と言われている。上層楼内の内陣は7畳敷で漆黒の須弥壇の上に、16羅漢像が安置されている[1]

画像

所在地

  • 長野県下伊那郡豊丘村河野3461

交通

脚注

  1. ^ a b c 豊丘村誌編纂委員会 1975, pp. 627–641.

参考文献

  • 豊丘村誌編纂委員会 編『豊丘村誌』 上巻、豊丘村誌刊行会、1975年。NDLJP:9569303 



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  泉龍院 (長野県豊丘村)のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「泉龍院 (長野県豊丘村)」の関連用語

1
泉龍院 百科事典
76% |||||

泉龍院 (長野県豊丘村)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



泉龍院 (長野県豊丘村)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの泉龍院 (長野県豊丘村) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS