水毛生伊余門
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水毛生 伊余門(みもう いよもん、文化12年(1815年)9月25日 - 明治23年(1890年)6月)は、幕末から明治時代にかけての農事指導者。石川県石川郡野々市村(現・野々市市)出身。荒地の開墾や養蚕の普及、寺子屋による教育活動などに尽力し、明治11年(1878年)に藍綬褒章を受章した[1] [2]。
概要
水毛生家は江戸時代から村役人を務めた家柄で、代々の当主は伊右衛門(伊余門)を名乗り、地域の指導者であると同時に文化人でもあった。屋敷は切妻妻入の農家形式に町家の要素を備える独特の構造であり、茶室「可夕亭」をはじめ京風の数寄屋造りが施されている。大正期には茶室の増築も行われ、庭園には加賀藩主前田利常が馬をつないだと伝わる大杉があった[3]。
水毛生伊余門は文化12年(1815年)、石川県石川郡野々市村に生まれた。幼少期から学問に励み、家業の農業を支えながら読み書きや算術を学んだ。天保年間には村内外の子弟に書算を教え、近隣500戸の子弟がその薫陶を受けたとされ、後に明治6年(1873年)創立の野々市小学校の母体となった[4]。
安政元年(1854年)、自費を投じて諏訪野の荒地を開墾し、安政6年(1859年)までに三町三反余(約3.3ヘクタール)の新田を造成した。その後も開墾を続け、明治2年(1869年)には六反余(0.6ヘクタール)の新田を完成させた。また、太平寺村の新田造成が資金難で頓挫しかけた際には私財を投じて支援し、七反余(約0.7ヘクタール)の新田を実現させた。
さらに文久3年(1863年)には養蚕を推奨し、自費で数万本の桑を購入して各戸に分与した。こうした農業振興の功績により、明治11年(1878年)に藍綬褒章を授与された[2][4]。 明治23年(1890年)6月に76歳で没した。
参考文献
- 『明治・大正・昭和日本徳行録』(1929年、読売新聞社、1732p)
脚注
- ^ “水毛生 伊余門とは”. コトバンク. 2025年9月28日閲覧。
- ^ a b 1929 & 読売新聞社, p. 1732.
- ^ “水毛生家住宅 附 庭園”. 野々市デジタル資料館. 2025年9月28日閲覧。
- ^ a b “村人のために荒野を水田に変えた篤農家”. 2025年9月28日閲覧。
外部リンク
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