新井洞巌
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新井 洞巌(あらい どうがん、慶応2年4月10日(1866年5月24日) - 昭和23年(1948年)5月2日[1])は、明治から昭和前期に活躍した南画家。本名は信吉。号は白雲、後に洞巌[2]。養子は住友生命保険社長・会長を務めた新井正明[3]。「洞厳」は誤記。
上野国吾妻郡原町須郷沢(現・群馬県吾妻郡東吾妻町)に、新井半重郎の次男として生まれた[4][5]。6歳の時に母、13歳の時に兄、19歳の時に父を亡くし、継母は異母妹を連れて郷里へ帰ったため天涯孤独となる[6]。
長井雲坪、四谷延陵、菅原白龍、高森砕巌に南画を[1][5]、漢学を貫名海雲に学んだ[5]。1896年(明治29年)から18年に渡って日本全国や中国の洞庭湖、台湾などを旅した[1][4]。その絵は吉川英治や安岡正篤らに評価され[4]、吉川からは「最後の南画人」と評された[1]。
主な著書
- 「南画の描き方」中央美術社、1918年。
- 「洞巌風雅集」金井好道 編、壱誠社、1960年。
脚注
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