教育科學研究
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『敎育科學研究』(きょういくかがくけんきゅう)は教育学雑誌。敎育科學研究會が発行した不定期発行誌。同会の機関誌。1939年(昭和14年)に発刊された。なお、同時期に同研究会の機関誌『教育』も並行して刊行され続けていた[注釈 1]。発刊当初より留岡清男が会の幹事長資格において編集作業を管理し編集兼発行者を務め、山田清人が編集実務を担当した[注釈 2][注釈 3]。本誌中に会員1,000名獲得を目標として明示した[1]。会員の治安維持法違反容疑による教科研事件の発生ののち1941年(昭和16年)に廃刊された。全17号刊行。
注釈
- ^ 機関誌『教育』は、1933年(昭和8年)以来の継続刊行。『敎育科學研究』の発刊とともに準機関誌的存在となった。もとは岩波講座『教育科学』の附録として刊行されていた『教育』が1933年の講座終了とともに独立して、月刊誌として発行された。当初約1万部。編集に城戸幡太郎、留岡清男。編集部員として菅忠道、山下徳治も参加。編集兼発行者は長田幹雄。城戸幡太郎『教育科学七十年』北大図書刊行会 1978年 p.273
- ^ 留岡は、のちに事務局長資格を兼任。
- ^ 教育科学研究会発足当初事務所は雑誌『教育』編集部のあった岩波書店の一室に設けた。その後、1939年頃事務局は法政大学の児童研究所内に置かれていた。城戸幡太郎『教育科学七十年』北大図書刊行会 1978年 p.99、『敎育科學研究』1939年11月号 敎育科學研究會 p.10
- ^ 阿部重孝が組織した教育研究会が1937年(昭和12年)5月教育改革同志会に発展し、同年の教育制度改革案の作成を主導した。後藤文夫、関口泰、宮島清、田澤義鋪、佐々木秀一、後藤隆之助、阿部が構成員。なお、1939年(昭和14年)9月の『敎育科學研究』創刊號には、同月の教育科学研究会常任幹事会において阿部からの教育資料受贈に関する件が協議されたことが載っている。
出典
- 1 教育科學研究とは
- 2 教育科學研究の概要
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