弘徳寺 (茨城県八千代町)とは? わかりやすく解説

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弘徳寺 (茨城県八千代町)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/30 02:11 UTC 版)

弘徳寺
所在地 茨城県結城郡八千代町新地547
位置 北緯36度10分16.7秒 東経139度54分47.5秒 / 北緯36.171306度 東経139.913194度 / 36.171306; 139.913194座標: 北緯36度10分16.7秒 東経139度54分47.5秒 / 北緯36.171306度 東経139.913194度 / 36.171306; 139.913194
山号 新堤山
院号 宗智院
宗派 真宗大谷派
本尊 阿弥陀如来
創建年 鎌倉時代前期
開基 相馬義清(信楽)
文化財 木造阿弥陀如来立像(八千代町指定文化財)
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弘徳寺(こうとくじ)は、茨城県結城郡八千代町にある真宗大谷派寺院

前史

開基の信楽の父である相馬師常は、1201年建仁元年)に出家し、法然の弟子となった。この年は浄土真宗宗祖親鸞が法然に弟子入りした年でもある。子の相馬義清(後の信楽)も、そういう経緯により浄土信仰に親しんでいた[1]

歴史

親鸞が常陸国真壁郡(現・同県下妻市小島)の小島草庵にいたころ、相馬義清は薬師如来霊夢により、親鸞のもとを訪れ、法話を聴いた後、義清は親鸞に弟子入りし、「信楽」を名乗った。そして自分の屋敷を寺院化したのが当寺の起源である[1][2]

親鸞に弟子した信楽であったが、親鸞の教義(浄土真宗)に異議を唱え、親鸞から離れたことがあった。弟子の一人が親鸞に「信楽に渡した物(本尊など)は取り返すべきでないか?」と主張したが、親鸞はその主張を否定し「(親鸞も信楽も)同じ阿弥陀如来の弟子であり、同行(仲間)であるのだから、(自分が信楽に渡した物を)あたかも親鸞自身の私物であるようなことを言うべきでない。」とし、信楽の行動を不問に付した。後に信楽は前非を悔い、覚如に謝罪して浄土真宗に復帰したという[1]

文化財

  • 木造阿弥陀如来立像(八千代町指定文化財 平成9年10月1日指定)[3]

交通アクセス

脚注

  1. ^ a b c 弘徳寺真宗教団連合「親鸞聖人を訪ねて」
  2. ^ プレスサービス 編『茨城の寺を訪ねて』茨城放送、1987年、253p
  3. ^ 木造阿弥陀如来立像八千代町

参考文献

  • プレスサービス 編『茨城の寺を訪ねて』茨城放送、1987年



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