山本秀樹 (内野手)とは? わかりやすく解説

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山本秀樹 (内野手)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/08 22:25 UTC 版)

山本 秀樹
基本情報
生年月日 (1955-01-02) 1955年1月2日(70歳)
身長
体重
176 cm
68 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 内野手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
  • ヤマハ

山本 秀樹(やまもと ひでき、1955年1月2日 - )は、元アマチュア野球選手・指導者である。ポジションは内野手

来歴・人物

関商工高校では、1971年秋季中部大会県予選決勝リーグに進むが、4校中3位に終わる。名城大学に進学。愛知大学野球リーグでは、1975年秋季リーグで優勝を経験。

大学卒業後は社会人野球大昭和製紙に入社。初出場となる1977年都市対抗では二塁手として出場。1回戦で電電中国と対戦し、俊足を武器に9回裏にサヨナラホームスチールを決める[1]1979年都市対抗では準々決勝に進出。日産自動車に敗退するが打撃賞を獲得し、同年の社会人ベストナインにも選ばれた[2]1980年都市対抗ではエース杉本正が好投、決勝で札幌トヨペットに大勝し優勝を飾る[3]

1981年に大昭和製紙硬式野球部が休部、ヤマハ発動機に移籍する。1982年社会人野球日本選手権では決勝に進出、辻発彦らのいた日本通運を降し初優勝を飾る[4]。同大会の優秀選手賞を獲得。しかしここも1983年に休部となり日本楽器に移籍する。1986年都市対抗では10年連続出場表彰を受け、引退までに15年連続出場も果たした。1987年都市対抗でも打撃賞を獲得する[5]1985年1990年にも、社会人ベストナインに選ばれている。

その後、ヤマハで監督を務めた。

脚注

  1. ^ 「日本社会人野球協会会報1977」日本社会人野球協会 1978年
  2. ^ 「日本社会人野球協会会報1979」日本社会人野球協会 1980年
  3. ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
  4. ^ 「社会人野球日本選手権大会20年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1994年
  5. ^ 「日本社会人野球協会会報1987」日本社会人野球協会 1988年

関連項目




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