宝蓮寺 (秦野市)
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本堂
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所在地 | 神奈川県秦野市蓑毛674 |
位置 | 北緯35度24分57.0秒 東経139度13分36.7秒 / 北緯35.415833度 東経139.226861度座標: 北緯35度24分57.0秒 東経139度13分36.7秒 / 北緯35.415833度 東経139.226861度 |
山号 | 蓑毛山 |
宗派 | 臨済宗建長寺派 |
創建年 | 不詳 |
中興年 | 寛文9年(1669年) |
中興 | 揖斐氏 |
文化財 | 蓑毛地蔵堂、蓑毛大日堂、蓑毛大日堂仁王門、蓑毛不動堂(以上、登録有形文化財)、木造大日如来坐像(神奈川県指定重要文化財)、木造聖観音菩薩立像、木造五智如来坐像、木造十王像他、木造二王立像(以上、秦野市指定文化財) |

宝蓮寺(ほうれんじ)は、神奈川県秦野市にある臨済宗建長寺派の寺院。
歴史
創建年代は不明である。ただ当寺に伝わる記録によれば、742年(天平14年)に聖武天皇の命によって「大日堂」が創建されたのが当寺の起源としている。承平天慶の乱の際、新皇となった平将門は、弟の平将文を「相模守」に任じた。その関係もあり、将門討死後も将文や如蔵尼(将門の娘)が一時期潜伏していたと伝えられている[1][2]。
1289年(正応2年)、臨済宗の禅僧である高峰顕日は周辺の寺を統合して「薬音寺」を創建した。南北朝時代に抜隊得勝は当寺に道場を開設し、多くの修行僧が集まった[2][3]。
1669年(寛文9年)、当地を所領としていた揖斐氏により再興された。その際に一族の「迎接院宝蓮信女」の名を採り「宝蓮寺」に改称した[2][3]。
文化財
- 蓑毛地蔵堂(登録有形文化財 平成29年10月27日指定)[4]
- 蓑毛大日堂(登録有形文化財 平成29年10月27日指定)[5]
- 蓑毛大日堂仁王門(登録有形文化財 平成29年10月27日指定)[6]
- 蓑毛不動堂(登録有形文化財 平成29年10月27日指定)[7]
- 木造大日如来坐像(神奈川県指定重要文化財 昭和49年4月19日指定)[8]
- 木造聖観音菩薩立像(秦野市指定文化財 昭和46年7月26日指定)[9]
- 木造五智如来坐像(秦野市指定文化財 平成2年4月23日指定)[9]
- 木造十王像他(秦野市指定文化財 平成15年2月12日指定)[9]
- 木造二王立像(秦野市指定文化財 平成20年4月18日指定)[9]
交通アクセス
- 神奈中バス蓑毛停留所より徒歩3分。
脚注
参考文献
- 稲葉博 著『かながわの寺と社 その成立と縁起(かもめ文庫‐かながわ・ふるさとシリーズ18)』神奈川合同出版、1984年
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