孟昶 (東晋)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/31 08:11 UTC 版)
孟 昶(もう ちょう、? - 義熙6年5月5日(410年6月22日))は、東晋末期の武将・政治家。字は彦遠。平昌郡安丘県の出身。弟に孟顗、子に孟霊休、孫に孟詡がいる。
- ^ 『晋書』「(義熙四年)夏四月,散騎常侍、尚書左僕射孔安國卒。甲午,加吏部尚書孟昶尚書左僕射。」
- ^ 『宋書』「及盧循寇逼,則劉毅於桑落,帝(劉裕)北伐始還,士卒創痍,堪戰者可數千人。賊眾十萬,舳艦百里,奔敗而歸咸稱其雄。眾議並欲都,仲德正色曰:『今天子當陽而治,明公命世作輔,新建大,功威震六合。妖賊豖突,乘我遠征,既聞凱入,將自奔散。今自投草間,則同之匹夫,匹夫號令,何以威物?義土英豪,當自求其主爾。此謀若行,請自辭矣。』」
- ^ 『宋書』虞丘進伝:「盧循逼京邑,孟昶、諸葛長民等建議奉天子過江,進廷議不可,面折昶等,高祖甚嘉之。」
- ^ 『宋書』武帝紀上、『資治通鑑』巻百十五「皆寫孟昶死於五月」、『南史』宋本紀上「則寫孟昶死於丙辰日」
[続きの解説]
「孟昶 (東晋)」の続きの解説一覧
- 1 孟昶 (東晋)とは
- 2 孟昶 (東晋)の概要
- 孟昶 (東晋)のページへのリンク