奉誠可汗
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奉誠可汗(ほうせいかがん、拼音:Fèngchéng Kĕhàn、? - 795年)は、回鶻可汗国の第6代可汗。氏は薬羅葛(ヤグラカル)氏、名は阿啜。可汗号はクトゥルグ・ビルゲ・カガン(Qutluγ bilgä qaγan)[1]といい、唐はこれに加えて骨咄禄毘伽奉誠可汗とした。奉誠可汗には子がいなかったため、彼は回鶻可汗国における最後の薬羅葛(ヤグラカル)氏可汗となった。
- ^ クトゥルグ・ビルゲ・カガン(Qutluγ bilgä qaγan)とは「幸を得たる賢明なるカガン」の意。
- ^ 可敦(カトゥン、Qatun)とは突厥や回鶻における「皇后」の意。
- ^ 僕固懐恩の子の回鶻葉護(ウイグル・ヤブグ)の娘。
- ^ 『旧唐書』では「達比特勤梅録将軍」だが、『新唐書』では「達北特勤梅録将軍」となっている。
- ^ 達干(タルカン、Tarqan)とは突厥や回鶻における官職の一つ。
- ^ 唐の栄王李琬(玄宗の子)の娘で、葛勒・牟羽の二可汗に嫁いだ。『旧唐書』では「小寧国公主」とあるが、『新唐書』では「少寧国公主」とある。
- ^ 炅はもと唐の人で、姓は呂氏であったが、可汗の養子となったため、可汗姓である薬羅葛(ヤグラカル)氏を名乗っていた。
- 1 奉誠可汗とは
- 2 奉誠可汗の概要
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