堯君素とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 堯君素の意味・解説 

堯君素

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 15:13 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

堯 君素(ぎょう くんそ、生年不詳 - 618年)は、軍人本貫魏郡湯陰県

経歴

隋の晋王楊広の側近として仕えた。煬帝が即位すると、鷹撃郎将に累進した。

617年大業13年)、驍衛大将軍屈突通の下で河東にあり、唐軍と戦った。屈突通が南に逃れると、君素は河東に残って、河東郡通守を称した。唐は将軍の呂紹宗・韋義節らを派遣して河東を攻撃したが、落とすことができなかった。屈突通が敗れて唐に降ると、河東の城下にやってきて君素との会見を求めた。屈突通は唐に帰順するよう君素に勧めたが、君素は屈服を潔しとしなかった。河東の情勢を東都に報告すると、君素は越王楊侗により金紫光禄大夫の位を受けた。隋から唐に降った龐玉や皇甫無逸らが河東城下にあらわれて、唐に帰順するよう呼びかけたが、君素は心を動かそうとしなかった。さらには君素の妻が城下にあらわれて君素を説得したが、君素は弓矢を射放って拒絶した。君素は部下をよく統率して抗戦をつづけた。618年義寧2年)、君素の兵は唐の行軍総管の趙慈景を捕らえた。唐軍による河東包囲は長期にわたって、城中の食糧は尽き、さらには煬帝が江都で殺害されたとの報が伝わって、河東の人心はついに離反した。12月、君素は部下に殺害された。638年貞観12年)、前朝に対する忠節をたたえられて蒲州刺史の位を追贈された。

伝記資料

  • 隋書』巻71 列伝第36
  • 北史』巻85 列伝第73



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「堯君素」の関連用語

1
32% |||||

2
12% |||||

3
8% |||||

4
4% |||||

5
4% |||||

堯君素のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



堯君素のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの堯君素 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS