唐崎信通とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 唐崎信通の意味・解説 

唐崎信通

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 19:47 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
唐崎 信通
別名 織部、上総介
個人情報
生誕
幸之助、左門

元禄11年12月23日1699年1月23日
安芸国賀茂郡竹原下市村(広島県竹原市田ノ浦)磯宮八幡神社
死没 延享4年5月(1747年
同上
墓所 安芸国賀茂郡竹原(広島県竹原市本町一丁目)長生寺
宗教 神道
配偶者 行友吉清娘
子供 唐崎士愛
両親 唐崎清継、吉井氏
宗派 垂加神道
主な著作 『辛斎説』
西宮筑後守、梨木祐之、松岡仲良、谷川士清
別名 織部、上総介
筆名 辛斎(号)、子濯(字)
寺院 礒宮八幡神社
聖職 宮司
地位
西宮筑後守、梨木祐之、松岡仲良、谷川士清
テンプレートを表示

唐崎 信通(からさき のぶみち)は江戸時代安芸国竹原礒宮八幡神社宮司。号は辛斎。梨木祐之、松岡仲良、谷川士清門下。弟は唐崎彦明、子は唐崎士愛

生涯

元禄11年12月23日(1699年1月23日)安芸国賀茂郡礒宮八幡神社唐崎清継の長男として生まれた[1]。幼名は幸之助、左門、後に織部[1]

享保2年(1717年)烏帽子・斎服を許され、享保3年(1718年)上総介に任じられた[2]。享保4年(1719年)京都に留学して2年間山崎闇斎門下西宮筑後守に学んだ[2]。享保8年(1723年)梨木祐之、享保19年(1734年)松岡仲良、元文以前谷川士清に入門し、寛保2年(1742年)1月士清から神道許状を受けた[2]

竹原に帰郷後、『日本書紀』等を講義した[2]延享元年(1744年)飛鳥井家に詩并序を献上し、士清から「風水草」の秘伝を受けた[3]。延享4年(1747年)5月急死し、長生寺に葬られた[3]

著書

  • 『辛斎説』 - 元文5年(1740年)6月30日[2]

親族

  • 父:唐崎清継
  • 母:吉井氏[1]
    • 弟:唐崎信順 - 幼名は半平[1]
    • 弟:唐崎信利 - 幼名は半蔵[1]
    • 弟:唐崎彦明
  • 妻 - 三津榊山神社出雲守行友吉清娘[1]
  • 子:唐崎士愛

脚注

  1. ^ a b c d e f 顕彰会 2010, p. 157.
  2. ^ a b c d e 金本 1996, pp. 33-34.
  3. ^ a b 菅 2010, pp. 366-367.

参考文献

  • 金本正孝「世に知られざる唐崎士愛の生涯 ―特に山崎闇斎百年祭の実行について―」『藝林』第45巻第2号、藝林會、1996年5月。
  • 唐崎常陸介士愛顕彰会『唐崎常陸介資料集』上、市立竹原書院図書館、2010年。
  • 菅脩二郎「唐崎常陸介略年表」『唐崎常陸介資料集』上、市立竹原書院図書館、2010年。



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「唐崎信通」の関連用語

唐崎信通のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



唐崎信通のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの唐崎信通 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS